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(私は中途半端に起きるタイプの不眠症らしい)
夜中に四回程度目を覚まし、結果的に浅い眠りになる。通院して服薬はしているが、まだ二週間経ったばかり。これでも減った方だ。元友人には「何それ、おばあちゃんみたい」とデリカシーなくいじられてしまい、十年の縁があっさりと切れた。
そんな八神心奏は今、親戚の家で暮らしている。実家より高校への距離が近いことと、両親共に帰宅時間が遅いのも重なってお世話になっていた。
「あ、心奏ちゃーん。ホットミルク飲む?」
「……飲む」
今夜も三回目の眠りから覚め、天井を見つめていたら、ノック音と男性にしては高めの声が聞こえてきた。
ドアの隙間から男が顔を出しており、ホットミルクの湯気がふわふわ浮かんでいる。
(眠れないのにずっとベッドに居続けるのはダメらしいし……)
寝床を出て階段を降りていく。
実家とは違い、一段一段の差があって苦労する。手摺りをしっかり握って慎重に降りる心奏に、男は決して急かせたりしない。
「あたしのも作っちゃうから心奏ちゃんは先に飲んでいて」
明る過ぎない、夕焼けを思い出すオレンジライトの下。心奏はダイニングテーブルに重々しく腰を下ろした。
「いただきます…………」
か細い声で食事の挨拶をし、一口含む。ミルクの濃厚さとはちみつの芳醇な香りがする。飲むと腹の底に温かいものが広がっていった。
(美味しい)
マグカップ全体も温められており、まだ心地良さが続いている。
けれど、小さな幸せも一瞬で過ぎてしまう。ふと目に入った時計。針は三時二十五分を指していた。
唇がマグカップから離れる。視界はぼんやりとするどころかクリアになってきた。現実を叩きつけられ、頭痛がする。
「ホットミルクってさ、電子レンジでも作れるからいいよね。美味しいのに簡単。栄養もあってまさに最強最高のドリンク」
心奏の前に男も座る。香って来たのは豊かなミルクのそれではなく、野菜を甘くとろとろに煮た匂いだった。マグカップに注がれた真っ赤なホットドリンクに口付けてふーふー、と冷ましている。第二関節まで袖で隠しているせいかあざとく映った。
「美味しー! やっぱホットトマトよね」
夜中に相応しくない声の張りよう。
「さっきの流れからそこに辿り着かないでしょ」
「あらそう? あたしにとってはこっちが最高なのよね」
また一口。テーブルには、生牛ヒレ肉のカルパッチョやサラミのトマトピザ、ふんわりスクランブルエッグトマトケチャップがけに、トマトサラダ。トマトゴリ押しのラインナップ。夜食にしてはかなり豪勢だが、男にとってこの量は普通だった。
「今夜は冷たい料理を作りすぎちゃったから、温かいものも欲しかったの。……はあ、冷えた体が生き返るわあ」
「もともとあんたは体温が低いんだから、別にサラダとかカルパッチョとか作らなくても」
二品はガラス細工の食器が使用され、見るからに冷え冷えだ。一度冷蔵庫で冷やしてあるのだろう。
心奏が指摘すると、男は悪戯に笑う。
「甘いものとしょっぱいものを無限に食べられるように、温かいものと冷たいものを同時に食べたくなっちゃうの。それに、サラダもカルパッチョもヘルシーだからいくらでもいけちゃうわ」
大食いの人の発想だと心奏は思った。実際、八神 叶人はよく食べる。
一八〇の高身長、ハーフアップした銀髪。ピンクやオレンジをベースにしたメイクの下は血色があまり無く、青白い。どこか人間離れしていた。
優しく弧を描いた目にはトマトより鮮血な赤の宝石が埋め込まれていて、見る者を惑わせる。
モデル体型を崩さないのは嫌味なのか体質なのか。
(それに比べ、私は深夜にホットミルク。……余分なカロリー摂取)
「どうせホットトマトドリンクを作るのならトマトグラタンでも作れば良かったわね。熱々とホカホカ。最高のコンビネーションだと思わない?」
心奏がここへ来て一つ分かったことがある。独特のマイペースさを持ったこの男は、私のペースを狂わせると。
(ナイフとフォークの使い方もゆったりで気品あるかと思ったら、料理に舌鼓を打っては頬を落としてゆるゆるの間抜け面になる。見た目だけで中身はわからないものね)
心奏は決して猫舌ではなかったが、相手が食べ終わるまでチビチビと子猫のようにホットミルクを楽しんだ。
「ごちそうさま。心奏ちゃんの分もあるからね」
「うん…………」
さすがにこの量を朝、食べ切れるだろうか。
「大丈夫、出来たてを作ってあげるから。いつもの時間でいいわよね」
心奏の心配をよそに、叶人はウインクをする。
「私、一人でチン出来るし。さっさと作り置きして早く寝なよ」
(あっ、まずい。今のは言い過ぎた)
居候の癖につっけんどんな態度と最低な発言だった。しかも自分は作ってもらう側。甘えてばかりの小娘が偉そうな口を効くのはおかしい。
(本当はこういうことが言いたいわけじゃないのに!)
掌に爪が食い込むほど握り締めていると、まだ残ったホットトマトを叶人は飲み干した。絹のような首にある喉仏を動かして。
「…………いい子だよね、心奏ちゃんは。料理を作る人への気遣いがあって、素敵な女の子だと思うわ。そういう奥ゆかしいところ、あたしは好きよ?」
年下の天邪鬼なんて気にも止めず、叶人は笑みを浮かべて目を細めた。柔らかい雰囲気を残しつつ、艶やかさに少女の胸が騒ぎ立てる。
(料理の腕だけじゃなく、顔もいいんだから腹が立つわ)
「誰が奥ゆかしいのよ! 私は大和撫子ではないもの」
「素直じゃないところも初心で可愛いのよ」
今度こそ言い当られる。素直ではないの部分。何も言い返せなくなって心奏は項垂れた。というか疲れた。このままベッドに入ればしばらく眠れそうだ。
(毎晩こうじゃん)
「あらあら。こっちにいらっしゃい、心奏ちゃん」
うつらうつらしていたのだろうか。叶人はおいでおいでをして心奏を招く。
返事をするのも億劫で、心奏は叶人の元まで行き、薄い筋肉の胸に顔を埋めた。いつもの定位置だ。ボブの髪を撫でる手は大きく、動きはゆっくりで優しい。一定のリズムで心地良かった。
「……んひっ……」
耳たぶにひんやりした指の腹が触れ、変な声が漏れた。
「可愛いお声ね。また聞きたいからいじめたくなっちゃう」
「やめてってば! あし……、今日早いんだから」
あと数時間でテスト一日目だ。これから三日間に渡りテストが行われるため、早めに学校に着いてテスト勉強をしたいと思っている。
ぐっすり眠れないとはいっても、少しでも眠った方が頭と体、精神的にも良い。
「はいはい、いじらしいんだからもう。ゆっくりお休みなさい」
声色には親愛が込められていた。
体がそのまま叶人へもたれる形となり、自然と落ちてきた瞼にも支えてくれる腕にも抗うことはしなかった。
時計の針が進む度、心奏は不安に駆られる。それでも髪を梳く音や互いの息遣いに集中していれば、嫌な音は自然と遠のいていく。
「おやすみ」
「おやすみなさい、心奏ちゃん。いい夢が見れますように」
叶人の決まり文句を耳にしながら、意識を手放した。
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