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──午後四時二十分
帰宅時間を知らせるチャイムが校内に鳴り響く。
補習に悲観し叫び声を上げている者や、放課後の予定にキャッキャと声を弾ませる者……。それでも皆、各々のグループに属していた。心奏には関係のないことだ。
(赤点回避できた。……よしっ!)
不眠症になり、最初に恐れたのは成績が落ちることだった。テストの平均点が高いクラスに所属しているのもあって、常に学力が求められる。担当医師をはじめ、両親や叶人に支えられ、今回も何とかテストを乗り切ることができた。
(叶人へのお礼にトマトケーキ買って行ってあげよう。今からなら間に合うかも)
平日限定の野菜ケーキ。日頃のお礼も込めてプレゼントしたら喜んでくれるだろうか。いや、絶対に喜んでくれる。だってあの、トマトと一生添い遂げそうな叶人だ。トマトのホールケーキなんて一瞬でなくなってしまうだろう。
自分でもわかるほど顔が緩んでいて、周りの音がシャットアウトされていた。
「……ねえ、八神さん」
ねっとりとした呼び掛けに産毛が総毛立つ。八十点の答案用紙を退けると見知った顔があった。
「一緒に帰ろ? なんで高得点を取れたか逐一教えてよ」
お団子の少女はにんまり笑う。能面に貼り付けたような笑顔は気味が悪く、答案用紙を握り締める手に力が篭る。
「あれれ? 聞こえていないのかな。あっ、そっか。おばあちゃんだったもんね」
「こいつ……」
嫌味を含んだ言葉に眉間に皺が寄る。「女の子が変な顔で怒っちゃダメ!」と叶人によく注意されていたが、友達から赤の他人に変わった八代 恵美にだけは怒りの表情を隠しきれない。
幼馴染でもある八代は、心奏の反応にさらに笑みを濃くする。
「おばあちゃんってば怒りっぽーい。ダメだよ、周囲の子が怖がっちゃう。あっ、そっか。八神さんにもう誰も親しい相手はいなかったよね」
「なんでそんなことばかり言うの! あんたには関係ないでしょ!?」
心奏が机を叩きその場に立ち上がると、ぐっと視線が近くなる。背丈もそう大差ない。常日頃共に行動していた過去はもう戻ってこない。
少女二人の喧嘩に静まり返る教室。誰かの「ほら八神さんってたしか……」という小声が嫌でも耳に入ってきた。
好機と捉えた八代は本性を現す。もしくは鬱憤を晴らすべくこの状況を楽しんでいる、と言ってもいいだろう。
「怒りっぽいじゃなくて、怒りん坊だね。彼氏さんも大変だー」
「えっ……」
(彼氏って誰のこと?)
群衆も耳を傾ける。八神心奏には無関心でも、年頃の男女が気になる話題といえば……決まっている。
「銀髪のモデルみたいな人と同棲までしていて。どうやったら今の八神さんみたいなのが、ハイスペックな人と釣り合うんだろうね」
毒棘を刺すような視線だ。容赦ない。周りもわかりやすくざわつく。
心奏自身も、叶人が居候として受け入れてくれたことに未だ疑問を抱いているが、否定する前にまた口を挟まれた。ついでに鼻で笑われる。
「媚び売っているんじゃないの?」
「……はっ?」
「だーかーら。親子って似るみたいだし? その手の何かを使ってさ、教師とか男を騙しているんじゃないのかって」
キレていい。これは正しくキレていい。
けど、人間は度を通り越すと何もできなくなるらしい。
唇が震え、立っていられないほどぐるぐるする。何も返せない間、八代は何か閃いたようだった。
「そういえば、彼氏さんってオカマみたいな口調だったよね。もしかして八神さんのことなんて眼中に………」
「あっ、あんたになんかっ!」
ようやく外に出た言葉は震え上がり、胸倉すらきちんと掴め切れない。
毒針の毒に犯されたのか、脳内に過去の忌々しい記憶が蘇ってくる。
『どうしたの? 世界絶滅まであと数秒みたいな顔は』
あの頃、たしかに八代は心許せる相手だった。だからこそ信用し、両親にも相談できなかったことを聞いてもらうため、きつく結んだ唇を開いたのだった。
『あのね、めぐ…………』
「あんたになんか……」
冷静になってみれば冗談だった可能性もある。しかし、積み重ねた時間はリセットされ、信頼も友情も呆気なく崩壊した。
「もう、友達じゃないくせにっ。勝手なことばっか、言うなよ…………!」
乾いた音が右頬からする。打たれた頬よりも心が痛くて辛い。似たような思いを前にも経験した。
(私も、めぐに同じ気持ちをさせてたのかな)
ようやく自分の犯した罪がわかった。そりゃ、独りになる。
叩いていないはずの右手が痛む。世界が滲み、答案用紙の赤い丸がぼやけて見えた。
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