1人が本棚に入れています
本棚に追加
──午後十時
真っ黒な空に浮かぶ明かりは、分厚い雲に姿を隠されてしまった。
軽いノック音が聞こえ、オレンジ色の光が豆電球すらつけていない部屋に伸びる。犯人は、毎晩乙女の部屋に無断で入る不届き者だ。
無言を貫くとベッドが軋む。毛布を深く被り、外より暗い世界に閉じこもっていたのに、温かな手が大きく撫でてくる。
「今夜は気分じゃない……」
「あたしはそうしたい気分なの」
会話が無くても撫でられ続けるが、本当に今は不快でしかなかった。心の何かを素手で触れられているようで苦しい。
「お願い、やめってってば!」
被っていたものを放り投げ、面と向かい怒鳴った。
急に起き上がろうとしたせいか、毛布に滑って体が前へ傾く。
(ぶつかって怪我させちゃう……!)
そんな突拍子のない行動に焦る様子は微塵もなく、叶人は心奏を受け止めるなり長い両腕で抱き止めた。
「離してよ!」
「話したら離してあげるわよ」
柔らかい口調のまま、叶人は普段よりきつめに腕を締める。拘束に近い形だ。
もがもがバタバタしていたが、いつも貸してくれる胸の温かみや男に染み付いた甘く香るトマトが、立った気を沈めていく。ついでに背中を叩いてくれた。
(これじゃあ、夜泣きした赤ん坊をあやしてるみたいじゃん!)
またイライラして、ムカムカする。でも上手く口に出せなくて、歯痒さに泣きそうになって。
「……っう……ふぅ……っ!」
ミルク色をした服が灰色へと移り変わる。お気入りの服だったのを思い出して顔を退けようとすれば、「今は心奏ちゃんの方が優先」と勝手に心を読み取ってきた。
優しさに観念し、ぐずぐずになりがらも今日のことを語り出した。
「そっかあ」
返された一言でまた涙が出る。
「あんたのなんでもわかってる感、たまに怖い」
「嫌いではないでしょ?」
暫し考えると「ちょっとー! そこは潔く頷く所しょう?」とケラケラ笑われた。
「…………ごめん」
反射的にビクつき、すかさず謝ってしまう。日頃の謝罪にしては足りない方だし、嫌われたくないのならもっと良いコミュニケーション方法があっただろう。
親戚の子にしたって気難しいにもほどがある、と我ながら思う。
「もー、心奏ちゃんってば!」
『心奏はさー』
「…………っ」
どうして幻聴が。叶人と八代は別人だ。それに、八代は叶人のことを……。
『眼中に無いかもね』
心が痛かった。一番柔らかいところを、刃物で何度も刺されたみたいに痛かった。
(悔しい? 辛い? わけがわからない)
自分でわからないのだから、察しの良い叶人だってわからないはずだ。
「…………呼んで」
振り絞ってか細い声で願う。
「ん?」
まだ届かない。なら、もっと近くで。
心奏は叶人の胸に置いていた手を大きな背中へと回した。男性にしては細身なのに、女子よりはガタイがいい、という至極当然な感想を抱いた。
「…………心奏って呼んで欲しい」
一度だけでいい、と呟いた。
隠していた本音が飛び出した。
同時に、叶人のことを好いているのだと嫌でも自覚する。ライクではなく、ラブの方で。
束の間の無言が恐怖になったけれど、今更取り消しもできない。
カーテンが靡く音と、息を深く吸い込んだ音が混ざった。
「心奏、好きよ」
慈しみのある綺麗な声。名前と一緒に余計な言葉を付け足される。
しかし、冗談だと思っていた叶人の『好き』が耳の奥から消えない。心を掴んで離さない。
「愛してるわ、心奏ちゃん。ずっと昔からね」
刻む込むように叶人は愛を口にする。
顔の中心に熱が溜まっていった。顎を取られ、後頭部を優しく支えられる。
月を覆っていた雲が去り、叶人の青白さが際立った。
鮮血な瞳は心奏の血液を沸騰させ、はくはくした閉じない唇を温度のない親指がなぞる。
「あら。可愛い顔が台無しね」
八重歯が見え、鼻を舐められた。
「心奏ちゃんのは甘みがあって美味しいのよね」
舌で唇を拭き取り、熱のある笑みを向けられた。
(やっぱり吸血鬼なんだ)
引っ越してきた日に、笑顔で説明された彼の正体。
不死身で暴食。先祖返りだと言う。
『睡眠? 最後に寝たのはいつかしら……。大抵のことは食欲で満たされてしまうものだからねー』
不眠症の相手によくそんなジョークを、と当初は睨みつけたが、実際に寝顔を拝んだことはなかった。
こうして本性を見せられたのは初めてだ。しかも頭がぐるぐるする。例えるなら貧血に近い。
「ちょちょ、きつかったかしら!?」
世界が回る。体の力も抜けていき、叶人が珍しくパニックになっているのに声も遠い。目の前も真っ暗になり、全身は重くて鉛のようだった。
(今、夜の何時だっけ。あ、でも)
今夜はよく眠れそうだ。
最初のコメントを投稿しよう!