ダンスホールへ

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ダンスホールへ

「はああ~そこで、生意気に弾きまくる、宛てにならない若造と出会ったということですね。」  応じた雅章の声は、少し晴れやかな響きだった。 「ほほほ、やっといつものマサさんになられたようね。」  屈託の無い笑顔で話してくれている。その恵海の姿に、懐の深い人物として印象付けられていた。 『大人になるとはこういうことなんだろうな。恵海さんにとって田上さんはどんな兄だったのかは知る芳もないけど、肉親を看取ってこんなに落ち着いている、その反面、亡くなられたことを受け入れられずに感情を抑えきれず狼狽(ろうばい)している俺は凄く子供に見える。そんな俺がこのギターを弾き熟せるはずも無い。』 「その後は、先程お話した通りなんですよ。」  雅章は、やはり、今の正直なところを答えた。 「いえ、それは僕を過大視しています。そのギターを貰ったところでまだまだ未熟な僕にあの音色を出すことなんか到底無理です。その重荷に堪えていく自信なんかありません・・・でも、田上さんのことをもっと知りたい気持ちは凄くあります。もし良ければ、暫くこちらにちょくちょくお邪魔してもいいですか。」  すると、恵海は膝に乗せていた両手の平を合わせて、受け入れを辞退する雅章に言葉を返した。 「まあ、それは構いませんよ。後でこの家の予備の鍵を差し上げるわ。それに尚正兄さんの部屋も全部自由にお家をご覧になってね。貰って頂けないのは残念ですけど、ギターは部屋に置いておきますから好きに弾いてくださいね。」 「本当ですか、ありがとうございます。部品は僕が取り替えておきますから・・・あと勝手言ってすみませんが、もう1つお願いがあります。」 「あら、畏(かしこ)まって何かしら。」 「田上さんがどのような人生を送って来たか、差し支えない程度にお話して頂けないでしょうか。」 「そうねえ・・・」  恵海は少し考えていたが、返答までそれほど間を必要としなかった。雅章の真剣な思いは十分に受けた、それにできる限り応えることが尚正の意志に沿うことになると、直ぐに思えたからである。 「分かりました。兄さんが、自分の分身を託そうとした方です。今日はまだ、お暇はありますか?」 「この後予定はありません。その為に伺ったも同じです、是非お願いします。」 「人の生涯の話ですので、今日だけでは中途になると思いますが、私の知る限り兄さんのことをお話します。ちょっとお茶を頂きますね。」  恵海は気持ちを整えるためか、あるいは話の段取りを考えているためか、お茶をゆっくりと口に運び、一息ついた。  そして尚正の生涯について、話が始まった。 「それは、兄さんと私の母、尚子のことからになります。」 ********************  尚子は、慶應(けいおう)から始まる老舗旅館の1人娘であった。  幼い時に母親は亡くなり、父親は、跡継ぎのこともあってか良き相手と縁を持てることを考えて、格式ある旅館の者として恥ずかしくない教養を身につけること、地方社会に埋もれることの無く社交性を持たせことを養わせようとした。若い時から変わりゆく時節に目を向けるようよく学べる環境と外の世界に交友を広めるような機会を作ることに努めた。そのためか、当時としては裕福な子供のように育てられ、幼い頃から自由に好きな習い事もさせてもらっていた。尚子は特に、音楽には非常に関心が強く、歌うことが好きだった。中学を卒業すると父親が言う教養と社交性を養うためと頼み込んで、上京して、音楽学校で声楽を学ばせてもらっていた。  時代は昭和の初め。日本は、亜細亜の第一国として、欧米諸国に対抗できる産業の振興と軍事力の強化、いわゆる富国強兵策を推し進めていた。この頃の社会は、欧米の様式や文化が流入し華やかだった大正時代とは違い、世界大恐慌による不況の波が日本にも及び、それまでの活気ある経済社会に暗い陰りが見えてきていた。そしてこの状況を乗り越えようと、日本は軍事力による海外への進出を行い、日中戦争を引き起こし、欧米諸国との深い軋轢(あつれき)を生む。その結果、太平洋戦争へ突き進むことになるのである。  さて、人の世というものは一度興じたものは暫くは続けられるものである。それまでに入って来た欧米の文化、つまり文学、音楽、芸術なども、日本人なりに消化して愉しまれていた。この頃、ヨーロッパから始まったアール・ヌーボー、その後のアール・デコの様式が、日本の生活環境にも浸透していた。ホテルや娯楽施設などにも、この様式を意識した建築物が建つようになり、巷にはモダン・ガール、モダン・ボーイと言われる洋装に身を包んだ若者達が闊歩し流行していた。いわゆる昭和モダンの時代だった。 「尚ちゃん、今度Y市T町にあるダンスホールに行こうよ。米国から来たジャズバンドが、凄い人気なんだって。」 「え~典ちゃん、でもあそこは危ないところなんでしょう。私の先生が、お酒と如何わしい音楽が流れる不良な場所だから行っては駄目だって。」 「大丈夫、大丈夫。少しくらいそういう危険な香りがないとつまらないわ。大人の社交場は、妖しい魅力に溢れているのが当たり前よ。」  同じ音楽学校の寮生として学ぶ2人は、今年20歳を迎える多感な娘達だった。そしてさっそく尚子を誘っていた当日の晩には、ダンスホールの入場口に来ていた。 「典ちゃん、やっぱり帰ろうよ。人はいるみたいだけど薄暗い建物だし、怖いよ。」 「何言ってるの。こうやって今流行の洋装で、お化粧して、一生懸命におめかしして来たのよ。尚ちゃんはハイカラなんて無縁な処から来たんでしょ。地元に帰れば当然こんなこと無いし、せいぜい音楽の先生で子供達を相手にする、それからはどこかの殿方の妻として務めていく人生なんだから。せっかく親から離れて来ているんだし、今出来ることはやらないと後で後悔するわよ。あっ、私達の番だ。すみません、2人お願いします。」  もう入場すると決め込んでいる典子は、怖がる尚子を引っ張って、ホール前に立っている係員に入場券を渡し入口のカーテンをくぐった。すると、薄暗い整然とした入場口前の景色とはうって変わって、流行の背広やドレスを纏った沢山の男女が酒とタバコを嗜み、次のバンド演奏が始まるのを待って騒々しく会話を愉しんでいる世界が広がっていた。2人は、初めて見る大人の社交場に少し気後れして尻込みしそうになった。
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