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音色を出せる者
たった1度きりの出会いだったが、セッションを通わしたことが深く心の奥に残っている。まるで肉親や古くからの恩師を亡くしたように思えた。
『田上さん、突然すぎるよ。あなたを失ったのは、羅針盤を持たず大航海に出てしまったのと同じだ。これから色々教えてもらって、少しでも貴方に近づいて行きたいところなのに、何故なんだよ、どうしてなんだよ・・・どう・・・どうしたら。』
しかし幾らそう嘆いてみたところで、田上の遺影が何かを語るはずもない。気付ぬうちに、涙が頬を伝っていた。すると、背中越しから涙声がした。
「あ、ありがとう、そんなに兄さんの死を悼んでくださって。お茶を淹れますので、お菓子と召し上がってくださいな。」
「す、すみません。」
雅章は、これ以上取り乱していたら失礼だと思い、とにかく気を落ち着かせようと茶をもらうことにした。
「ささ、こちらに座って下さいな。足も崩して下さいね。」
雅章は、勧められた通りちゃぶ台に座った。
目の前で急須にお湯が注がれると、すうっと鼻先にさわやかな香りがして来る。出されたお茶を一口飲み、喉を通し少し呼吸を整えると、随分と気持ちが穏やかになった。
「あの~、これ田上さんから頼まれたギターの部品です。」
そう言って、ショルダーバッグの中から例のペグを取り出すとちゃぶ台に置いた。
「代金は、おいくらかしら。」
「いえ、お金は結構です。僕と同じく楽器店の店長が田上さんの大ファンなんです、それは商品になってない在庫品だそうで、差し上げますと言ってました。」
『和さん、いいよね。』
「それじゃあ、あなたが’マサちゃん’っていう方。」
「えっ、ええ、あだ名です。雅章と言います。でもどうして僕をマサだと。」
「半月ほど前に、尚正兄さん、行き着けの楽器屋さんに久し振りに伺ったら、面白い事があったって、それはとても楽しそうに話していたのよ。あまり表情を変えない兄さんが、あんな様子を見せたの数えるほどよね。」
「そうなんですか。実は、僕が新しく入荷したギターを試奏していて、その時来店されて初めてお会いしました。それで失礼にも腕比べを申し込んだんです。」
「そうですってね、兄さん言ってたわよ。俺の若い時そっくりだって。演奏のスタイルは今風だけど、腕前も兄さんの若い頃程にあるようね。私、尚正兄さんの若い頃を見てるから、あなたも相当お上手なのね。兄さんが若い時、たまたまうちの旅館に泊まったT京の音楽業界の先生が兄さんの演奏を見てね。その実力に驚いて、将来性を認めて、わざわざ祖父の所に来て、本格的に学ばせなさいと説得して上京を薦めたくらいなのよ。」
「へえ、そんなことがあったんですか。」
お茶をもらって会話が弾むと、やっといつもの雅章に戻ってきた。
「僕は、田上さんの演奏を見て、これからの自分の演奏、いや音楽自体に必要なものがそこにあったんです。ご自宅に伺った一番の理由は、田上さんから色々とお話を頂くことができればと思っていました。でも、もう叶わぬことと分かり非常に残念です。僕の目の前で見せていただいた素晴らしい旋律を一生心に留めておきます。」
恵海は、雅章の気持ちを十分に受け取ってくれたようで、うんうんと頷いていた。そして、予期しないような話を切り出してきた。
「雅章さん聞いてくれる、まだ続きがあるのよ。実は兄さんは死ぬ前に、雅章さんに会ってくれるようにと私にお願いをしたの。後で店長さんにあなたの連絡先を教えてもらうつもりだったので、来て下さって助かったわ。」
「えっ、そうなんですか、そ、それで何を頼まれたんですか。」
「お渡ししたい物があるのよ。ちょっと待っててくださいね。」
恵海は座敷を出て襖を閉めると、奥の部屋に行った。
窓の外を見ると、縁側から見える庭の柿の木が程よく実を付けている。柔らかな日差しを浴びたもみじが葉を少し赤らめ、その風情が秋の訪れを感じさせる。雅章は待っている間も、じっと田上の遺影を眺めていた。そして、座敷の襖が開いた。
見えた瞬間、突然目が冴えた様な感覚が雅章の身体を巡った。それは、相当使い込んだ古いガットギターだった。
「それはひょっとして、ひょっとして田上さんが公演の時に使ってたギターですか。」
「そう、尚正兄さんのギターなの。これを雅章さん、貴方に渡してくれるよう頼まれました。」
「えっ、でもこれは田上さんの貴重な遺品ですよ。それに今の僕では、あのライブの時の様な穏やかで美しく趣き深い音色はとても出せません。」
「そうね、確かにあなたは若いし、これからなのでしょうね。今は、兄さんの様にこのギターを弾きこなすことは出来ないでしょうね。でも、兄さんはこう言ったの。‘楽器は、演奏されてこそ楽器なんだ。特にコイツは、想像を超える音色を持っている。それがあるからこそコイツは存在しているんだ。俺は、もうじきこの世を去ってしまう。しかしコイツは、俺と運命を共にすることはないんだ。だからこれまで、コイツを託せる奴を捜し回っていたんだよ’ってね。」
「でも、僕なんかよりずっと上手い有名な演奏者が沢山います。その誰かに託せばいいんじゃないですか。」
少し強い調子で訴え掛けるように声を出す雅章に、恵海は落ち着いて、それに動じること無く話を続けた。
「それで兄さんはそのことも言っていたの。‘知る限りのギタリストにあたってみたが、名のある者はやはり駄目だった。コイツの音色は技術では引き出せん。感覚の様なものがそこに入らないと駄目なんだ。その素質を持った者じゃないとな。だから俺と同じ臭いのする奴を捜してみることにした。数々のライブハウス、楽器屋を回って、そんな奴が居るか覗いてみたが、全く宛てにならない奴ばかりだった。その間にも、病は進んでいく。焦りは次第に諦めに変わってしまいそうだったよ。そんな時、昔修理してから今まで狂ったことの無かった3弦のチューニングが微妙にズレ始めた。コイツの部品を取り寄せるのはかなり難しいと思ったが、俺に親身になってくれる川村という楽器屋なら何とかしてくれると思い行ってみたんだよ。’ってね。」
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