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魅惑のジャズ
そんな感じで呆然としていると、30歳位の男性が尚子に声をかけて来た。彼は頬から顎にかけて艶っぽく髭を生やし、ソフト帽を少し深めにかぶり格好をつけていた。
「どちらからいらっしゃいましたか。良かったら演奏が始まるまで、私共の所でご一緒にお話しませんか。」
突然の誘いの言葉に尚子はびっくりして、どぎまぎしていると。
「お誘いありがとうございます。この娘は今日、此処は初めてで勝手が分からないもので申し訳ありません。私共だけでしたら快くお申し出に沿えるところですが、残念ながら連れの殿方と待ち合わせておりますので。」
典子は丁重な態度で、そうさらりと言ってのけた。
「それは誠に失礼いたしました。お2人が余りにも美しい方々だったので、思わずお声かけした次第です。それではこれで失礼いたします。」
そう意外にもあっさりと、男性は丁寧な言葉遣いで失礼だったと陳謝し、帽子が落ちないようつばを右指で摘み、頭を下げて一礼すると去って行った。
「典ちゃん、凄~い。ここに何度も来ているの?」
「まさか、私も当然初めてよ、でも、上手く断れたみたいね、良かった。」
「ねえねえ、あんなに手慣れたこと、どうして言えるの。」
「ふふ、私のお姉さん、こういう所よく来ていて、行くからって言ったら、色々と教えてくれたのよ。」
とは言え、尚子には、こんな所でも物怖じせず、しかもちゃんとその場に応じた態度を心得ているそんな典子が、自分よりずっと大人であることに感心してしまった。
# ザワザワ ハハハハ フンフン・・・
客達が、どういう素性の者か見当もつかないが、事業や商売のことだろうか、はたまた儲け話のことだろうか、いや、男女のもつれ話のことかもしれない、それぞれの席からそんな感じの言葉が出て、時折うなずいたり、軽く笑い合ったりする声が聞こえてきていた。
するとそのうち、先程まで暗かった演奏ステージが明るく照らされ、にわかに周りの会話の騒がしさがおさまった。そして、1人のタキシードを着た紳士がステージ前に現れた。
”本日ご来場頂きました、紳士淑女の皆様。次に登場致しますは、当ホールの支配人が遠く米国にまで赴き、ジャズの本場ニューオリンズから連れて参りました、実力者ばかりが揃った注目の楽団であります。既に当楽団をごひいきにして頂き、再度ご来場されたお客様のお姿も多数見受けられます。当ホールもこの手ごたえには非常に喜んでおる次第であります。また初めてご来場の方々も、ご期待に応える演奏で再び来場して頂けると思っております。それでは、演奏の準備が整ったようです。今宵の主役はお客様であるあなたです、最高の音曲をお届け致しますのは、5人の西洋の演奏騎士団、その名は、’クール・アンド・ムーディ・ブラザース’です、どうぞ~!”
ステージの幕が開いたと同時に、バンド演奏が始まった。オープニングらしく派手な曲調で、場内の雰囲気は一変して華やかになった。
♪ ♪♪~♪♪、♪~♪、♪♪♪、♪~・・・
蓄音機などでない生の音で繰り広げられるステージパフォーマンス。バンドの構成は、ドラムス、トランペット、トロンボーン、クラリネット、ジプシーギター、アップライトピアノ。曲調も、巷では2ビートのデキシーランドをよく耳にしていたが、微妙に前後に揺れるようなリズム、軽快で心地良い乗りのある4ビートのジャズだった。
尚子と典子は、初めて本場のジャズバンドのライブ演奏を目の当たりにし、それは正に、夢を見ているかのような感覚であった。
『今、米国で流行し始めているって聞いてるスウィングというものだわ、素敵。』
尚子は、先程までの緊張感は何処へ行ったのか、一瞬にして、ジャズの魅惑に心を奪われた。辺りでは、早速ダンスに興じ始める男女や、カクテルを片手に組んだ足の片方でリズムを刻んでいる者などが見える。典子も身を乗り出すような姿勢で、バンドの演奏に有頂天になっている。
「典ちゃん、もっと前に行こうよ。」
2人は小さな子供の様に、バンドの傍まで近寄っていった。
見たことも無い異国の夜の宴が、まるごとこの場所にやって来たと勘違いさせるほど、ジャズの音色が造り出している西洋の妖艶な世界に惹き込まれていく。
『何て素敵なうっとりする気分だわ。ああ、こういう音楽もやってみたい。この初めて直に聴いた舶来の生の音楽、深く魅了されていく。』
それから暫く、尚子達は躍動感あふれるスイングジャズに酔いしれて聴き入っていた。
やがて2人も聴き慣れてくると、興奮していた気持ちも少し落ち着いて、ジャズの流れるホールでようやく穏やかに寛げるようになっていた。
「はい、召し上がれ。」
典子が、カクテルのソーダ割とおつまみを持って来た。
「ありがとう、典ちゃんが居なくなったのちっとも気付かなかったわ。」
「だって尚ちゃん、周りのこと全く関心無いって感じだもの。此処が本当に気に入ったみたいね。」
尚子はカクテルを一口飲んで、頷きながら喋り返す。
「だって、同じ音楽でも学校とは正反対。そりゃあ理論や正式な発声の訓練も大切だけど、それ以上に理屈抜きで夢中にさせることが大事だと思うの。」
「そうそう、私の先生なんかやれ姿勢がどうだとか、そこの音の入り方が違うとか、揚句には服装まで、いちいちうるさくてかなわないわよ。多分こういう音楽があることも認めないんだろうな。」
誰しも酒が入れば、良い気分になり大らかになるというもの。2人共、なんだか自分達も一角の大人になった気持ちで、つまり一丁前の会話を交わし合う。
「今日は典ちゃんのおかげで、夢のような体験が出来たわ。明日は、学校は休みだし、終わった後、典ちゃんの伯父さんが経営しているホテルに泊めてもらえるし、本当にありがとう。」
「お礼なんて、水臭いわよ。伯父さん子供が居ないから、私のような不良娘でも可愛がってくれて感謝しているけどね。伯父さんも、ジャズが大好きなんで良かったわ。普通なら、ダンスホールに行くなんか言ったら、親じゃなくても絶対止められてるものね。」
確かに、この時代のダンスホールやカフェーという施設は、実際は、現在のナイトクラブやキャバレーのような風俗営業施設のようにして成り立っていることもあり、世間的に非常に良く思われていなかった。つまり、夜の大人の社交場であり、極めて不健全であるとされた娯楽場だった。
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