素敵なホテル

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素敵なホテル

♪ ・・・・ジャラ~ン  演奏が終わった。 # オオオオオー パチパチパチパチ・・・  感嘆の声と歓喜の拍手で沸き返っている。とても酒の匂いとタバコの煙り漂う妖しげな男女の社交場とは思えないような純粋な賞賛の空気に一変していた。 こうして尚子達の大人の世界への冒険、興奮冷めやらぬダンスホールの一夜は終了したのである。  その後2人は、事前に呼んであったハイヤーで典子の伯父が営むホテルに向かっていた。 「今日は、本当に忘れられない1日になったわ。最初ちょっと怖かったけど、本当に来て良かった。典ちゃんのおかげだよ、ありがとう。」 「実を言うと、私も、本当はドキドキだったんだ。やっぱりダンスホールって危ないところじゃないかって言われていたしね。最初、尚ちゃんに声かけてきた男の人にはびっくりしたわ。心得てはいたけど、自分でもあんな上手い言葉は二度と言えないんじゃないかな、アハハ。」 「え~、本当に?、でも助かったわ。私、もうホセさんに夢中になっちゃった。あの流れるような、それでいてリズムに溢れる演奏に心が翻弄(ほんろう)されちゃった。」 「そうそう、私なんか、泣きながら聴いていたんだよ。恥ずかしかったんで、顔をそらしたらね、葉巻くわえて偉そうにどっかり椅子に座っていた向かいのおじさんも、目が真っ赤だったんで可笑しくって、でも安心したわ。」 「ところで典ちゃん、知っていたら教えてくれる。あの楽団って、定期的に演奏しているのかな。」 「ふふ~ん、さてはホセさんをまた観に行こうと思ってるな。姉さんの話だと、まだ来日して間もないので他の楽団と違って雰囲気に慣れるまで決まってないって言っていたわ・・・でもね、私、飲み物をもらいにバーテンダーのおじさんに聞いたら、オーナーさんが今度の金曜日に出演調整しているらしいよ。」  それを聞いて、尚子の目が大きく開いた。 「えっ、そうなの。典ちゃん、偉い! 来週、私の先生、K市の祝賀会の演奏に出かけるから授業お休みになるの。だからまた、ダンスホールに行こうかと・・・お願いなんだけど、ホテルに着いたら伯父様に宿泊の予約取ってもらっていいかしら。」 「やっぱり?、羨ましい。お願いするのは構わないけど・・・尚ちゃん1人で、本当に大丈夫? 私、その日は駄目だと思う。」 「もし、良かったら典ちゃんのお姉さん誘えないかしら。やっぱり女の子1人でダンスホールは危ないかもしれないよね。」 「分かったわ、聞いてみてみるわ。あれ、車が止まったわ、ホテルに到着したみたい。」 # ブルルルルルルル  典子の伯父のホテルは、港に面した海岸通り沿いに位置していた。5階建の重厚な大理石張りの壁が美しく見栄えする近代的な西洋建築の建物だった。この頃の日本は、欧米の近代建設運動が大いに進められ、鉄、コンクリートによる建築物が頻繁に建つようになっていた。いわゆるモダニズム建築と言われていた。尚子は、このような本格的な西洋式ホテルに泊まるのは、初めてである。b16bf6e9-210e-46ce-85c4-d625c85c9448 「すっごく素敵。まるで本当に欧米のホテルに来たみたい。」  入口のキャノピーには、ホテルボーイが2人応接で出迎えを行なっている。 「当ホテルへお越しいただき、誠にありがとう存じます。荷物を部屋までお運びいたしますのでお預かりいたします。」  尚子と典子は、ホテルボーイにそれぞれの荷物をお願いした。 ”お客様2名、お通しいたします。”  ボーイがそう告げると、ルネサンス様式の装飾が施された大きな両開きの玄関ドアがゆっくりと開かれた。 # キュウウウウ するとホテル内では、受付の係員達が中央の通路を挟んで待機している。 “いらっしゃいませ。ようこそ西園寺ホテルにお越しいただきました。”  目の前には、ペルシャ製の絨毯(じゅうたん)が敷き詰められ、至る所に西洋絵画が飾られた装飾布張りの壁、アーチ型の天井にシャンデリアが架かったフロントロビーが現れた。 『なんて素敵なホテル。』  尚子は、ホテルのあまりの豪華さに眼を奪われてしまっていたが、その興奮している気持ちが仕草に出ないように気を付け、首を動かさずに辺りの様子をキョロキョロ見回していた。 「尚ちゃん、ちょっとここのソファに座って待っててね。」 ”こんばんは。”  典子は、まるで自宅に帰って来たかのように平然として受付のカウンターに歩いて行った。 「お嬢様、お越しいただきありがとう存じます。」 「兼次伯父さんいる?」 「はい典子お嬢様、西園寺オーナーは奥のオーナールームにいらっしゃいます。今お呼びして参りますので少々お待ち下さい。」  その様子を座って見ている尚子は、いつもあっけらかんとしている典子がこのような家の者なのかと想像を巡らせていた。 『典ちゃんのお父さんは海運業だって聞いてたけど、伯父さんはこんな豪華なホテルを経営しているし、桁違いの実業家の一族なんだわ。』  そう典子の親族達に興味を示していると、伯父らしき人物が現れた。 「おっ、来たな不良娘。ダンスホールで酒飲んで、遊び帰りが知れたら兄貴怒るぞ~。」 「え~、兼次伯父さん、私の味方だよね。社会勉強のため、大人のたしなみについてちょっと実習して来ただけなのに。」  典子と伯父である兼次は、気さくな付き合いができるようである。 「分かってる、分かってる。しかし、お姉さんと共に、何で俺に似たのかなあ、このままだと、嫁入り出来なくなるぞ。あれっ、向こうのソファに座ってる可愛いお嬢さんが友達の尚子さんかな。挨拶したいから、典子、呼んでくれる。」 “尚ちゃん、尚ちゃん、こっち来てくれる。”  典子が自分の方に手招きするのが見えた。 尚子は、いくら親友の伯父とはいえ、こんな立派なホテルのオーナーと急に挨拶をするようになって緊張しないわけはない。
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