まだ見ぬ世界への憧れ

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まだ見ぬ世界への憧れ

「は、初めまして。田上尚子と申します。こんな素敵なホテルにお世話になるなんて夢のようです。典子さんとは同じ音楽学校の生徒として、楽しくお付き合いさせて頂いております。今夜は、宜しくお願いいたします。」 「当ホテルのオーナー、西園寺兼次です。こんな可愛らしいお嬢さんが友達とは意外に思っていますよ、まだお若いのにしっかりしてますね。うちの不良娘とは大違いだ。」 「何言ってるの、伯父さんの若い頃に比べたら私なんかすごく上品だよ。」 「お前、曲がりなりにも伯父だぞ。その態度、改める気は無いのかな。兄貴と義姉さんの前では、借りてきた何とかなのにな。まあ実際、野良猫みたいに外をうろうろしているけどな。」 「だって、家なんて、つまんないもの。あそこは私にとって’お葬式場’。誰も楽しくお喋りしたりしないんだもの。」  尚子は、典子と兼次が気兼ねなく話し掛け合っている様子を見ていると、いつの間にか自分の気持ちもほぐされて、和やかになっていた。 「お2人共、友達同士の様に仲が良いのですね。私には、ざっくばらんにお話できるような親族がいないので羨ましいです。」  そう尚子に言われて、典子と兼次はちょっと恥ずかしい所を見られたなと思ったのだろう。 「そうか、尚ちゃん、ひとりっ子だったよね。」 「母は私が小さい時に亡くなりました。父は地元の旅館の経営に追われる毎日ですし、普段余り私に話したりしないんです。それに私も、今はどう接して良いのか分からないのが本音です。母が生きている時は、家族を第一に考えていました。本当は、すごく優しい人なんです。旅館の経営に熱心なのは、今でも母を亡くした痛みを紛らわそうとしているのかも知れません。私がやりたい事は全て許してくれます。こうして私がわがままを言って、遠く離れた音楽学校にも通わせてくれています。」  尚子は、もう兼次の人柄に気付いているのか、自分の胸の内を少し話していた。 「お父上の事が、心配で、愛しているんだね。忙しいかもしれないけど、多分、お父上の方も大きくなった尚子ちゃんにどう接して良いのか分からないのかもしれないよ。」 「きっとそうよ。尚ちゃんから話しかけてあげれば絶対喜ぶはずだわ。私なんか話しかけたら、すぐあれこれお説教よ。父も母も’西園寺刑務所の看守’だわ。」 「アハハ、西園寺刑務所は良かったな。俺も兄貴達と話すのはちゃっと苦手なんだな。まるで、坊さん達と会話しているみたいだもんな。おっと、つい話し込んで、こんな時間になった。」  兼次は、受付簿に2人の名前を記入し、担当にチェックインの依頼をかけた。 「すまないが、2人の部屋を用意してあげてくれ。」 「かしこまりました。既にオーナーから要望頂きました港側のお部屋を用意しておりますのでご案内させて頂きます。」  そしてまた、典子達の方に話し掛けてきた。 「お前達どうだ、明日の朝食は部屋でもいいが、せっかくだから皆で一緒に取らないか。」 「あ~、それいいね。今日の演奏のことも話したいし、尚ちゃん大丈夫?」 「私も是非、お願いします。明日も、楽しい1日になりそうですね、嬉しい。」 「分かった。」  再び、受付担当者に依頼をかけた。 「それじゃすまないが、レストランのバルコニー側の席で、明日、9時頃朝食を用意しておいてくれ。」 「かしこまりました。お食事の準備が整いましたらお部屋へ伝えに参りますので、宜しくお願いします。ところで、オーナーのこんな笑顔を見るのは久しぶりのような気がします。お嬢様方にお越しいただいて良かったですね。」 「そう見えるか。このところの世の中の動きにうんざりしているんだよ。世界恐慌以来、欧米の経済は混乱が続き、ついに自国を護ろうと相次いで通商の制限を他国に迫り始めた。自給力の無いわが国はたちまち影響を受け、深刻な状況に向かっている。幸い兄貴の船会社と俺の各ホテルも、欧米での過去の実績と事業連携している甲斐あって、今のところそれほど運営に支障は生じてないが、先んじて本腰を入れ対策を打っていくつもりだ。それと、最近の軍部のことだ。俺は政治のことに触ろうとは思わんが、あいつ等は危険だ。何でも力で事を進めようとしている。今の政府が暴走を抑えられない状況になってきているから、有力諸外国は、わが国に対し牽制する動きが出てきている。疲れているつもりは無かったが、こんな状況で会社をやっている苦しい気持ちがこのところ顔に出ていたのかも知れんな。経営者の顔色を社員は良く見ているし、全体の志気にかかわるから気をつけんといかんな。気遣いしてくれて、ありがとう。」 「いいえ、私達はオーナーの心意気と判断力にいつも感心し、その下で自信を持って勤めさせていただいております。言葉するほどの資格はありませんが、本当に嬉しそうなご様子でしたので・・・では、案内係が参りましたので、お嬢様方をお連れいたしますがよろしいでしょうか。」 「ああ、よろしく頼む。」 「それじゃ2人とも明日の朝、またな。」 ”おやすみなさい。”  兼次に挨拶した後、尚子と典子は、宿泊する部屋のある上階に案内された。ロビーの中央には、幅が2間(けん)程もあろうか、手すりの造詣が美しいバロック様式の階段が続いている。美しい絨毯張りの踏み段を上りながら、尚子は、さながら招かれた貴婦人の様な気分であった。そして格子型にはめ込まれた大理石の廊下を過ぎて、2人はそれぞれに賄われた宿泊の部屋に通された。  相当疲れていたのだろう、典子は入浴後着替えを済ませ、ベットに入るやいなや眠ってしまう。そして尚子も、観演の興奮で疲れてはいたが、ホセのフラメンコの音曲が鮮やかに刻み込まれた記憶としてずっと頭の中に流れていたためか、しばらくはその感覚が冷めるまで、英国風の椅子に座り、窓の外をじっと眺めていた。そして桟橋に目を向けると、外国籍の大型客船が停泊していた。またところどころ船室に灯りが点いているのが見えていた。 『どこの船か分からないけど、あれに乗っていけば私の知らない世界に出会うことができる。ホセさんの音楽、フラメンコの国、スペインへ向かう予定もあるのかしら。』  初めて真近で見たフラメンコの魅力にすっかり虜になっている。 多感な時期に出会えたものがその後の人生に大きく影響するとよく言われるが、それが分るのはずっと後になってからのことである。豪華なロビーとは違って、宿泊者が寛げるよう部屋の内装は、至極落ち着いた色調にまとめられている。そうしている内に、尚子の気分も次第におさまって、いつの間にかその場で目を閉じてしまった。
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