ホセの真髄

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ホセの真髄

 すると、カウンターの横から男の声がした。 「今日もお越していらっしゃるんですね。」  尚子は、振り向いた。 「あら、あなたは・・・。」  そこにいたのは、先週声をかけて来た髭の男性だった。 「あなたも、あのホセの演奏を目当てにいらしたのですか。」 「ええ、先週のあの素晴らしさが忘れられなくて。」 「その節は、不躾な振る舞い、誠に申し訳ありませんでした。」 「いえ、このような所の勝手が分からなかった私は、逆に自分が恥ずかしく思いました。どうか気になさらないでください。連れが、私が戻るのを待っておりますので、これで失礼致します。」 「いえいえ、いきなりお声かけした私が悪いのです。でも、先週に比べ、随分落ち着かれたご様子ですよ。一段と大人の美しさが増されましたね。」 「ありがとうございます。またお会いする機会があれば宜しくお願いいたします。」  尚子は、そう丁寧に断りを言って兼次の席に向かった。お世辞でも全く赤の他人から自分が大人の女性に見られたことに、心なしか気持ちが弾んでいた。  やがて会場内にざわめきが起こると、ステージ前にはタキシードを着た宮本が登場した。 「兼次伯父様、お水と替わりの飲み物を持って参りました。」 「おお、ありがとう。」  兼次は、一口水を飲んで息を着いた。 「宮本の喋りはどうでもいいが、これからさっき言ってたスペイン人の出番なんだね。」 「そうなんです。宮本様がステージ前に立たれたので、慌てて戻って来ました。」  尚子の高潮した顔付きを見てただけで、心待ちにしていたのが良く分る。 「まあ、とりあえず座って。」  確かに前回の演奏が知られているのか、先程から踊ってばかりの男女や酒を飲んでバーカウンターにへばり付いてとても音楽には無縁な感じの小肥りの男がいつの間にか自席に戻っていた。 「ちょっと驚きだな。さっきまで会話でくつろいで、私語でざわざわしているのがなくなった。」  宮本の明澄な声が響き渡り、ホセとの馴れ初めを語り続いていた。 ”・・・という次第であります。しかしながら、彼のこれまでの演奏家としての位置付けを考えまして、バンド演奏の間を賄うようなことはすべきではないと判断しました。したがいまして、彼のこのソロ演奏のプログラムは、今宵限りと致しますのでご了承下さい。”  その最後の言葉に、会場全体が一瞬ざわついた。 ”それでは、演奏の準備が出来たようです。遠く遥かなるスペイン、燦燦と太陽の光が降り注ぐアンダルシアの大地、そこに流れゆく風がなびいている様に、叙情的な調べがこのホールに響き渡ることでしょう。スパニッシュギターの正統継承者、ホセ・アマリージャ・ロレンツォです、どうぞ!!。” # パチパチパチパチパチ・・・  宮本の躍動的な掛け声で、会場が一気に拍手の渦となった。  ステージ前に置かれた袖の無い丸椅子。深い紫色のサッシュを巻き、金糸の薔薇の刺繍が入った紅いボレロを纏い、スペインの民族衣装に身を包んだホセが登場した。場内は更に割れんばかりの拍手だ。その喝采の中で、ホセは日本人の儀礼を意識したのか、客席に向かって深々とお辞儀をした。そして椅子に座り、膝の上にギターを備えると、ホールは一瞬にして水を打ったような静けさになる。それは誰かが1つ咳ばらいしたことでもはっきり聞き取れるほどだった。 ♪ シャラ~ン・・・・  ギターのサウンドホールに添えたホセの右手の甲が波を打つようにストロークして、6本のストリングから美しい和音が導き出され、始まった。 ♪ ♪~♪♪♪~♪ ♪~♪♪♪♪~・・・・  超絶的な速さでメロディアスなトレモロが爪弾かれと、それは打ち合わせた訳ではないだろうが、宮本が例えた様に、アンダルシアの大地に吹き渡る風を想像させるような旋律が爽やかに響き渡り、聴衆の耳元を過ぎて、ホール全体に広がっていく。 『凄く素敵。やっぱりホセさんの表現は、全てご自身のおもむくまま。技巧に走ったり、仕掛けたりしない。そしていつの間にかそこに惹き込まれてしまう。』  ホールにいる全ての者が、ただ、ただ、聴き入っているだろう。客達の中には、自分自分の思いの中でその調べのほの哀しさに胸打たれて涙している者もいる。兼次も同様だった。涙ぐむ顔を見られたくないのか、紅潮した顔つきでじっと俯(うつむ)いているばかりだ。次第に曲調が変わり、ラスゲアードと細やかなアルペジオの掛け合いが始まると、聴いている者全てが動かなくなり、まるで人形のように静物と化してしまった。それは、ホセが1人会場にて演奏しているかのような光景である。やがてつかみ所の無い変拍子と譜割りの読めない細やかな悲壮感のある音曲が流れ始めると、演奏はシギリージャへと変化した。それは深く、嘆きを表すフラメンコ。聴く者の心に過去を振り返えらせ、回顧の念を強烈に感じさせてしまう。 “うううう・・・”  そのことを証明するかのように、ある男は鈍い声をひくつかせながら泣きだした。親不孝だった自分を責めているのだろうか。母親のことを呟いている者もいるようだ。そして、締めくくりは、ブレリアだった。 ♪ ジャンジャン ジャンジャガ・・・  激しく鳴らされるラスゲアードとゴルペが感情が尽き果てるまで繰り返されて、演奏は最高潮に達した。シギリージャから引き続き、否応なしに心を揺さ振られてしまう。ホールの外は人通りのない静かな夜の街、そこにもフラメンコの激しくも哀愁に満ちたギターの音色が微かであるが漏れ流れていた。  そうしてホセの熱演が終わった。 # ワアアアア パチパチパチ オオオ・・・  歓喜の声と拍手、ホールが賞賛の音で盛り上がり耳を塞ぎたくなる程だ。尚子も、立ち上がって惜しみ無い拍手を送っている。その傍らで座ったままだったが、兼次はホセの演奏の見事さに脱帽し、頷いていた。
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