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唐突な申し出
「伯父様、ホセさんの演奏、本当に素晴らしいでしょう。ついこの前鑑賞させていただいたのにまた泣いちゃったわ。」
「ああ、それはそうなって至極当たり前のことだよ。彼の母国、いやこの世界が混乱状態で無ければ、後世に語り継がれる名手としての業績を次々に打ち立てているだろうな。現在は、文化よりも武力を、個よりも全体を望む世の中に向かっている。彼の様な卓越した才能があったとしても、力を良しとする社会から必要とされないと切り捨てられる、淋しい限りだ。」
そしてしばらく、会場の興奮がなかなか冷めずにざわついていたが、再びジャズバンドの演奏が流れ始めると、ホールは先程の和やかな男女の会話と酒を楽しむ姿に戻った。
”今日来たのは、俺が誘ってあげたからだぞ。感謝しろよ。”
’‘ええ、ええ旦那さん、おっしゃらなくても分かっていますよ。本当に、素晴らしいギターの演奏でした。あ・り・が・と・。”
’‘そうか、そうか。”
あちらこちらで、この様なたわいもない会話が聞こえてくる。
「尚子ちゃんの言った通り、いやあ参った、久々に心が洗われたよ。このところ嫌なことばかりだからな、正直、仕事や私事でも、うんざりしていたので気分が持ち直したよ。」
「いえいえ、こちらこそ感謝のお礼を申します。伯父様のお世話がなかったら今回の私は無かったんですから。」
そんな会話に弾んでいるところに、先程宮本の注文を受けていたウエイターが席にやって来た。
「恐れ入ります。宮本支配人から開演前にお話があったと思いますが、是非ご相談したいことがあるとのことです。差し支え無ければ、支配人室にお越しいただけないでしょうか。」
「相談?・・あっそうか、そういえばそんなこと言ってたな。あいつまた何か俺に儲け話を持ちかけるつもりなのかもしれないな。分かった、10分後に行くからと伝えてといてくれ。尚子ちゃん、30分程で戻るから待っててね。」
「分かりました。いただいた飲み物もいっぱい残して・・・。」
すると、ウエイターが尚子の話の途中で割り込んだ。
「あっ、いえ、田上様もご一緒にと言うことですが。」
「えっ、そうなの?、尚子ちゃんにも話かね・・・。」
言葉を半ばにして兼次は少し考えていた。
『呼び掛けって、俺じゃなく尚子ちゃんにってこと?』
尚子を含めて話すことなど全く予測が出来ない。取りあえず言われたままに、尚子にどうか尋ねた。
「尚子ちゃんも来てくれとのことだけどね、何の話か分からない、一緒に行けるかい?、まあ、俺が先に聞いておこうかと思うけどね。」
突然のことでもある、やはり尚子も戸惑いを見せていた。
「ご一緒するのは構いませんが、大事なやり取りの中に私が居て大丈夫ですか? お仕事の話は分からないと思います。兼次伯父様とで、では駄目なんでしょうか?」
「そうだよな、俺だけなら良いけど、唐突に来いとはこれは失礼だよな。ん~とにかく分かった、俺がまずいと思ったらそこで止めるからさ。」
兼次は、ウエイターに言葉を返した。
「取りあえず2人一緒に向かうと伝えてくれ。」
「ありがとうございます。支配人も大変喜ぶことと存じます。それでは、失礼致します。」
ウエイターは、深く一礼すると2,3歩そのまま下がってから向きを変えて帰っていった。
「宮本様が私にもって、何をお話になるのでしょうか。」
「俺も分からないなぁ。あいつ普段の時は商売のことばかりだからな。皆目見当がつかないな。とにかく俺が話をしているから、傍で聞いていればいいよ。じゃあ行くか。」
「はい。」
兼次がこれまでの宮本との付き合いやこのホールの立ち上げの時のいきさつなどを話しながら、尚子と共に薄暗いホールの従業員通路をずっと歩いて行く。と、そこに支配人室があった。
『あら、女の人かしら?』
ある人影が見えた。支配人室の入口前にのスーツ姿の女性が立っている。お互いの顔が判るくらいに近づいたところで女性はお辞儀をし、挨拶をした。
「この度は、私共の会社にお越しいただきましてありがとうございます。私は、宮本の秘書を担当しております、海堂と申します。」
「あれ、秘書?、替わった?、確か眼鏡をかけた、痩せっぽちな奴だったけど。」
「はい、辻ですね。私は、つい最近雇用となりました。現在、辻は経理、運営業務を担当し、私は語学力と以前に報道事務所に勤務していた経歴を買われて、主に広報、渉外業務を担当しております。これから皆様とご一緒させていただきまして、色々と支援および執務して参りますので、宜しくお願いいたします。」
「あ~俺達と一緒に?、そうなのか?、ん~とにかくこれから宜しくな。じゃ、尚子ちゃん入ろうか。」
「あっ、お待ちください。宮本がとりあえず西園寺様にこの度の件をご相談させていただき、ご判断を受けた上でご同伴でお話いたしたいと申しております。突然お話して、田上様を不愉快にさせてしまえば、元も子もありません。ご心配、ご迷惑をかけなくて済むだろうとのことです、いかがでしょうか?」
「なるほどね、さすが宮本君の商売に対する配慮の仕方にそつがないな。俺もその方が良いと思う、尚子ちゃん、どうだい?」
海堂は、併せて尚子にも依頼を掛けた。
「では、西園寺様をお通しすることで宜しいですか。それまでは、田上様は秘書室でお待ちして頂きます。」
緊張気味の様子であった尚子も、それを聞いて少し安心したようである。
「分かりました。兼次伯父様、お願いしますね。海堂様、私を秘書室に案内してください。」
「ああ、それが良い。尚子ちゃん、終わったら呼びに来るから、待っててくれ。」
「よろしくお願いします。それでは田上様ご案内いたします。」
堂々とした海堂の後に付いて行く控え目な尚子を見送ると、兼次はノックもせずに支配人室のドアを開け、中に入って行った。
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