主役は尚子

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主役は尚子

# カチャ 「どうぞお入りください。」 「失礼いたします。」  尚子は、海堂の秘書室に招かれた。  室内の様子は、仕事机や書類棚がある業務処理を執り行うだけの殺風景なものではなかった。接客するためのクッションの付いたアールデコ調の椅子や茶卓が備えてある個性を感じる応接スペースがあり、尚子はソファーに座って、海堂に対する興味を示していた。 「海堂様は、男性の方々と対等にお仕事をされていて凄いですね。」  確かに昭和初期のビジネス社会は、女性の社会進出が目覚ましい時代だったといわれている。給料をもらって勤める女性達を職業婦人といい、一般的に働く女性を認めるようになる。とは言え、女性全体から見ればごく少数で、その職種も、女給、看護士、電話交換手、タイピスト等に限られていた。 「田上様、私のことは、’海堂’と呼び捨てでお願いします。今の日本は、見た目には欧米諸国に近づいたような社会になってはいますが、でもまだまだです。幸い私は認めていただいたのですが、この様な仕事は、女性というだけで除外されてしまいます。私は、性別に関係無く能力を判断してもらいたく語学力を身につけました。」 「それでは前職の報道のお仕事も、その語学力を活かされたのですね。」  海堂は、笑顔をもってその言葉の通りであると答えた。 『本当に素晴らしい方だわ。』  全ての人々に等しく機会を与えられている社会、欧米諸国に比べて未熟であり、特に女性としての位置付けがまだ低い今の日本社会の中で、自分なりに努力して目的に向かっている海堂の姿勢に尊敬の念を抱いた。 「ところで田上様は、現在音楽学校に在籍されているそうですが、将来は音楽家の道を志されるのですか。」  海堂のその質問に応じる返事が出来なかった。それはホセの演奏を受けて、自らの将来を見つめた時と同じ気持ちになったからだった。 「海堂様、あ・・海堂・さん、あなたやホセさんから自分自身に厳しくする意味を教えられました。今の私は、まだまだ自分に甘いばかりです。生意気に志や将来の目標を言うなんて自分が恥ずかしい思いになると思うんです。」  そう自重する尚子に、海堂は少し慌ててしまった。 「田上様、ご気分を悪くさせてしまい誠に申し訳ありませんでした。しかしながら、そんなに謙虚な方ならご心配いりません。田上様は私より十分魅力的な容姿と性格そして感性を持っておられます。その様な方はお会いしてみれば、すぐに分ります。あとはそれをどう将来に活かすかをお考え頂ければ宜しいかと存じます。きっと巡り来る運命が、田上様を良き方向に導かれるのではないでしょうか。」 『巡り来る運命?』  海堂の言ったことが理解できなかった。 『海堂さんは、自分の将来は自分で切り開くものと考える方だと思っていた。何故、私に、運命に身を委ねるようなことを進言したのかしら。』  そう思っていると、秘書室のドアの向こうから声が聞こえた。 「西園寺だけど、入っていいかな。」 「伯父様、どうぞ。」 「西園寺様、大丈夫です、お入りください。」 # キュウ  ドアがゆっくりと開き、兼次が室内に入って来た。そして、尚子の横並びでソファーに座り、そして両手を前で組んだ。。 「宮本支配人の話なんだけどさ、全部分かったよ。話の主役はね、やっぱり尚子ちゃんだったよ。」 「えっ、私ですか。」  自分のことが中心に話がされていたとは、さすがに予測できていなかった。 「俺が代わりに話をしようかと言ったら、私が申し出る話ですのでときっぱり言われたよ。これから宮本支配人の相談を受けに行くけど、即答しなくて構わないよ。尚子ちゃんと知り合ったのは、俺にも何かの縁があったんだろう。いつでも俺が後ろ立てしていると思ってほしい。それじゃ、行くけど大丈夫かな?」  突然のことで尚子は当然気持ちが整理できず高ぶっていた。しかしここは、兼次の心遣いもあり、むげに断るなどできるはずもなく、取りあえず話を聞くことにした。 「少し不安ですけど、私、お話を伺います。それと海堂さん、私のことは名前の’尚子’でお願いします。’田上’で言われると何か緊張してしまうんです。」  すると海堂はニッコリと微笑みかけて、支配人室へ案内することを申し出る。 「田上様、いえ尚子様、参りましょう。自分の運命を切り開くのも、受け入れるのも自分の意志です。その純粋であるがままの姿が尚子様の一番の魅力、そこに宮本や西園寺様、皆、惹かれてしまうのです。私も出来る限りご支援させて頂きますので宜しくお願いいたします。」  傍らにいる兼次も、その言葉に笑顔で頷いていた。  そうして支配人室を訪れると、これもまた笑顔で宮本が執務机の横で左手を置いて立っていた。ウィンザー様式の装飾が施された調度品が程よく配置され、英国風で落ち着きのある気品を感じる内装である。 「尚子様、お越しいただき誠にありがとうございます。こんなところでお話しても味気ないものです、さあさあ奥の応接に移りましょう。」  そう言って支配人席の斜め前に見えるドアの取っ手を引くと、勧める応接室の様子が現れた。 『えっ。』  尚子は、室内の様相に目を見張った。  格天井(ごうてんじょう)、漆喰壁(しっくいかべ)、京畳(きょうだたみ)そして欄間(らんま)や筆返しまで設け、まるで日本間の茶室があるかの様な趣深い造作になっていた。さらには障子の引き戸を開くと、外に小さな日本庭園まで造ってあり、そこから鹿威し(ししおどし)の音が聞こえている。cae14600-94d2-4668-9655-d7f97c7e94dc 「この様な処ですので、すみませんが履物を脱いでお上がり下さい。海堂、済まないが茶を煎れて来てくれないか。」 「かしこまりました。」  海堂は、宮本の言付けで茶の用意に退出した。
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