シェフ畑山

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シェフ畑山

『あれっ、もうこんな時間だわ。今日は、結局ホテルにずっといたんだ。そろそろ帰らないとまた一晩お世話になっちゃう。』  尚子は、最後に先程から気になっていた箱を開けてみる。中身は、沢山の映写フィルムだった。 『昨日帰りの車内で、伯父様が言ってた記録フィルムかしら。何が撮られているのか、凄く見てみたい。』  すっかり日が暮れた頃に、フロントに降りて来ると、受付にて高橋が書類の確認をしている。そして尚子に気付いたようである。 「何か興味深いものが、ありましたか。」  問いかけに、尚子は楽しそうな表情で返事をした。 「ええ、面白いものばかりで、時間を忘れてしまいました。長居してすみません。」 「いえいえ、これからいつでもおっしゃって下さい。」 「箱の中の沢山のフィルムは、伯父様が撮られたものなんですよね。」 「ええ、オーナーが西園寺海運にいた頃の記録フィルムなんです。スペインのものがあるか捜しておくように言われましたので、揃いましたらお知らせいたします。」 「色々お世話になります。本も記録帳もどれも面白いものばかりで、フィルムを見るのも凄く楽しみです。都合が合えば、是非私も捜しますのでやらせてくださいね。」 「お気遣いありがとうございます。それから、オーナーから聞きました。田上様から依頼されました料理担当ですが、今厨房におりますので、挨拶に参らせましょう。」 「あっ、いえ、お仕事のご迷惑になりますので、私が参ります。それで、少しだけその方とお話してよろしいでしょうか。」 「ええ、もちろんですとも。」  尚子は、高橋の案内で厨房に向かった。レストランの厨房は、夕食に向けて、忙しくコック達が働いている。 ”こらっ、早くしろ。ソースをかける前に、素材が冷めて料理を台なしにするつもりか。” ”5番テーブルの客が、次の料理を待っているそうです。早めにお願いします。” ”あの太り過ぎの外国人だな。あいつ吸い込む様に食っているからな。”d1bb5d50-3ec7-460a-aea6-ac68fb4b401c  尚子は、余りにもの忙しく働くコック達の姿を見て、尻込みしてしまった。 「やっぱり、また次の機会にお願いいたします。」 「えっ、田上様、大丈夫ですよ。」 「だって、お仕事の迷惑ですよ。」 「私達は、オーナーの用命を受けていますので、断ることこそお叱りを受けてしまいます。遠慮無くお願いいたします。」  高橋は、銅製の寸胴でソースを煮込む1人のコックに声をかけて、連れて戻って来た。 「紹介します、シェフの畑山です。1ヶ月程前に欧州から帰って来たばかりです。彼は、3年間、客船と仏、伊、独そしてスペインのレストランで、当ホテルの研修員として料理を学んで帰って参りました。」  高橋に紹介された畑山は、緊張していたのか、瞬きもせず黙っていた。 「初めまして、田上と申します。私は、これから兼次伯父様と組んで、フラメンコをやっていくのですが、まず、スペインの事を学びたいと思っています。畑山様は、スペイン料理を学んで来られたのですね。宜しければ、ホセさんとお会いするまでに、出来るだけスペインの方々の食について知っておきたいきたいのです、教えて頂きますか。」  尚子が丁寧に頼み込んだことで、畑山も思わず言葉を返した。 「あっ、凄く綺麗な人ですね。この方が、あの社長とフラメンコ踊るんですか。」 「えっ?」  そう言葉に出して、尚子が目を丸くしていると、すぐさま高橋が畑山に改めて言った。 「アハハハハ、畑山、すまない。説明が中途半端だったな。オーナーは、興行制作者として後押しするだけだよ。僕も最初勘違いして聞いてたけど、オーナーじゃ、逆に金出して来てもらわないとな。」 「そうですよね。五十の手習いじゃ無いですけど。ただ趣味でやりたいのかと思ってたので、年配の女性かと思ってましたよ。それが、こんなに若い、美人の御婦人だったんで、びっくりしましたよ、あっ、喋りすぎて失礼しました。」 「いえ、私は大丈夫です。」  畑山は、大分緊張がほぐれてきているようである。 「田上様は、フラメンコをやるにあたって、スペインの物事を理解したいということですよね。それでその流れの1つとして料理のことも理解しておきたいとのことですね。」 「ええ、もし宜しければ、実際の料理を食べるだけでなく、作ったりしてみたいのですけど。」 「分かりました。こんな美しい方となら、レストランの方よりこっち優先でやろうかな。」 「ええっ、それはだめですよ。褒めて頂くのは嬉しいですけど、本来のお仕事の邪魔にならないようお願いしますね。」 「ハハ、冗談ですよ。そのホセさんは、アンダルシアから来た方ですよね。それじゃ早速、料理を一緒に作る日を決めましょうか。どうです、次の日曜日なんかはいかがですか。」 「ええ、大丈夫です。偶数の日曜日は、兼次伯父様と打ち合わせをする予定になりましたので、それ以外の日曜日には、空けるようにします。」 「本当ですか。まだまだ遊びたい年頃なのに、無理しなくていいんですよ。」 「いえ今回、音楽が好きだといっても、私はただ漠然とやって来ていたのが分かりました。運命のいたずらなんでしょうか、突然フラメンコという具体的な目的が現れると、もう私には、フラメンコを演じること以外考えられなくなりました。だから休日をそこに専念出来て、とても幸せなんです。」 「いやあ、情熱的ですね。自分は、音楽のことは何も分かりませんが、アンダルシアのレストランや酒場だけでなく、親戚や友人が集う家庭の宴席でも、当たり前の様にフラメンコが演じられます。フラメンコはアンダルシアの人々にとって、精神であり、肉体であるようです。宴が始まると、必ず誰かがトケつまり伴奏のギターを奏で、パルマ、手拍子を打ちはじめる。するとここで主役のカンテ、歌が始まり、若い女性が床を踏み鳴らし拍子をとるバイレ、踊りはじめる。つまり、誰もがフラメンコを行うのです。それは、見せるるというより、気持ちを表すという感じです。」 「そうなんです。ホセさんの演奏は、見て楽しむのではなく、聴いていて感じるものだと思いました。」 「その方は、本物のフラメンコ奏者ですね。是非、自分も見てみたいです。スペインは、ずっと国内が混乱状態で当面訪れることはないでしょう。なので、こんなところでフラメンコに出会うのは、不思議な気がしますよ。とにかく、スペインで見たフラメンコは、正に情熱で表現する音楽と舞踊でした。ですから、今の志を持って挑んいけば、きっとフラメンコを演じ切ることが出来ますよ。自分も応援しますので、頑張ってください。」 「ありがとうございます。畑山様、私を勇気付ける力強い言葉を頂いて、そしてこんなに沢山の人から支援して頂く私は、本当に幸せ者です。どこまで、出来るかは分かりませんが、私なりに表現できるフラメンコを目指しますので、宜しくお願いします。」  励まし合う若い2人。その光景をほほ笑みながら見ていた高橋は、先の予定の内容に話を進めた。
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