高すぎる壁

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高すぎる壁

“高橋です、入室しても宜しいでしょうか。”  尚子は、蓄音機を止めて返事をした。 「どうぞ、お入りになってください。」 # キュウ  ドアが開けられると、高橋の身体の陰に何やら大きな機械が見えている。 「尚子様が心待ちにしていらっしゃるだろうと思いまして、急いで映写機を手配して参りました。」 「本当ですか、嬉しい、私に何かすることがあれば、お手伝いさせてください。」 「設置の作業をしますので、一旦退室していただきますか。完了しました後に試写しますので、映り具合を診ていただけますか。」  尚子が部屋を出た後、中でゴトゴトと物音がしている。その間も先程聴いていた楽曲を思い浮かべて、舞踏の姿を想像していると、待ちかねた呼び出しが聞こえた。 “尚子様、出来ましたので、お入りください。” 「あ、はい、失礼します。」 # キュウ  ドアを開けてみると、確かに映写機が設置してある。当然尚子は気持ちが高鳴ってくる。 「どうぞ入って、お座りください。これから、試写しますので、一緒に確認願います。」  高橋は、とりあえず選別してあるフィルムの1つをセッティングして、映してみた。 # シャカシャカシャカ・・・・ 「あれ、ちょっとぼけてるな。」 「もう少し前ですね。」  次第に映像の焦点が合ってくると、何かの宴の情景が見えてくる。 「あ、高橋さん、う、映ってきました。」  尚子は、声を上ずらせていた。  正装した紳士、淑女達の中心に、小柄で、華やかなドレスを着た1人の踊り子が座っている。すると、周りの宴席の者達が、拍手を始める。もちろんそれは、踊り子に対してである。そして場面が移動し、数人のギター奏者が映し出され、激しくラスゲアードしている傍ら、数人女性達がそれに合わせパルマする。映像の中でフラメンコが始まった。 「うん、この位置で良いようですね。」  高橋は映り具合の確認ができたので、映写を一旦止めようとした。 「あっ、止めないで下さい。」 「は、はい。」  高橋は慌てて動きを止めた。そして、映像はそのまま流れていく。bad8f6ef-991d-4c41-99d5-a4610dcd0162 # シャカシャカシャカ・・・・  すると座っている踊り子は、すっと顎(あご)を上げ気味に胸を張って立ち上がると、皆が囲んでいるフロアースペースの中央に素早く進み歩き、そして立ち止まる。と、そのままの姿勢で軽く膝を曲げて皆に挨拶をした。次に、左腕を胸元に上げ、右手をゆったりと妖艶に、それでかつ繊細でしなやかな仕草で動かしていく。その動きと合わせて、今度は全く逆に激しく、爪先とかかとを複雑に使いながらサパティアード、床を連続して踏み鳴らし始めたのである。  トーキー、いわゆる発声映画は、この時代まだ映画館の上映用で出始めたばかりだった。個人のフィルムでは、戦後のことである。音が無いのは残念なところだが、それでも十分に彼女の凛とした上体にもかかわらず凄まじいといっても過言で無い舞踏の姿に、尚子は強く圧倒されてしまったのだ。そして、踊り子の卓越した技術に、これから自分も挑まなくてはならない高すぎる壁を感じざるを得なかった。 # シャカシャカシャカ・・・・  踊り子のフラメンコが終わると、観客一同総立ちで拍手喝采。10分程度でフィルムは終わっていたが、尚子は見ていたままの格好から少しも動かなかった。その様子を見つめている高橋は、ゆっくりと落ち着いた声で思い遣る言葉を掛けた。 「尚子様、私も初めてフラメンコの舞踏というものを見ました。芸術のことは何も分かってはいませんが、この方の踊りは、素人の私でも驚きの一言です。この域に行き着くまで、どれだけの努力と経験を積まなければいけないのか想像もつきません。それでもこうして、尚子様がいったい何を目指しているのか、はっきり確かめられました。」  こわばっていた尚子の表情が、少し緩んだ。 「私にお気遣い下さって救われます、すみません。このフィルムで、やっと現実が分かったような気がします。私は皆さんの助けに甘えて、さも自分が直ぐにでもフラメンコが出来る気になっていたようです。このフィルムを見て、私にとって、とてつもなく大きな壁だということが実感できました。正直言って逃げ出したいくらいの不安です。同時に、これまで意気揚々と掲げた志が、いかに浅はかであって、思い上がりであって、実は夢で終わってしまうのではないかとも思えて・・・。」  尚子がここで一旦話すのを止めたので、高橋は、心臓が止まってしまうような気持ちに陥った。そして見えるはずもない暗がりの中で、怖々と尚子の顔色を伺っている。 # シャカシャカシャカ・・・・  やがて再び、尚子は話し始めた。そこには、並々ならぬ強い意識的な表情を見せていた。 「越えられないかもしれません。しかし、私は何もやらずに諦めようとも思いません。そんなことで辞めてしまうと、ここまで私の好き勝手を許してくれた父に対して、何も応えられない惨めな自分となります。そして、支えてくださる皆さんに応えて言ったことが単なる玉虫色にした言葉になります。私は、そんな虚栄にすぎなかった自分を見たくないのです。命をかけてでもフラメンコを全うしたいんです。」  高橋は、フラメンコへ臨む情熱が今の尚子を支えていると実感した。今の言葉で希望が途絶えていないことに少し安心したが、それ以上にひたむきにこの大きな壁に挑もうとしている純朴な若い娘に、夢の実現とはいえ、とんでもなく重い責任を負わせてしまった者の1人として、ひどく罪悪を感じていた。 『自分達は、この素直で一生懸命な尚子様を利用して、自己満足を得ようとしているだけじゃないのか。もしそうだったら、自分は一生悔やみ続けることになるだろう。』 # シュウウウウ・・・  もう映写機は、フィルムが終わって、白い画面を映しているだけだった。
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