土下座

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土下座

「早速だが、このフラメンコ事業の要点だった尚子ちゃんとの契約については、お父上の承諾を快くいただけて安心したよ。尚子ちゃん、ありがとう。そして海堂君、ご苦労様。」  兼次の労いの言葉に、まず海道が応えた。 「いえ、私は使命を果たしただけです。御父上様から私にまで激励のお手紙を頂いたのは驚きました。お会いした時は、少し御警戒されていましたが、尚子様からのお手紙と西園寺様からの挨拶の書簡が届いていたので、用件は理解されていましたし、直ぐに契約についての説明に取り掛かることができたのは助かりました。物腰の低い方で、尚子様が素直で温和な性格になられたのが分かります。」 「父を説得できたのは、海堂さんだからです。今まででこんな聡明な女性を見たのは初めてだ、って書いてありました。父は結構堅物で、頑固なんで、海堂さんを困らせるんじゃないかって心配していました。」 「よし、これで準備は整った。一蓮托生、皆で尚子ちゃんと共に何処までも突き進もうじゃないか。皆さん、お昼も近づいて来ましたので、この度のフラメンコ楽団の船出を祝し、アンダルシアを中心にしたスペイン料理とシェリー酒を用意しました。今後の事も話しながらスペイン流に昼食といたしましょう。高橋、畑山に食事の準備をと伝えに行ってくれないか。」 「かしこまりました。」  高橋は、ちょっと尚子を横目で見ながら退出した。すると、尚子が申し出た。 「兼次伯父様、私もちょっと退席して良いでしょうか。」 「尚子ちゃん、何かあったのかい。」 「いえ、たいしたことではないんですけど、クロークに預けてある荷物を取りに行きたいのです。その間、宮本様やホセさんとお話ししててくださいな。」  そう言って、尚子も皆に軽く会釈して退出した。 「ところで、宮本君、今日は何だか大人しいな。」  それから暫くして、料理の支度の終えた畑山は、大広間の入口に最初の料理を持って来た。その時、びっくりするような大声で怒鳴っている兼次の声が聞こえて来た。 ”一体君は、ここまで来て何を言っているのか分かっているのかね!”  畑山が恐る恐る室内を覗くと、兼次の前で土下座する宮本の姿を垣間見たのだった。97c772dc-4714-4ee8-b9a2-e7f0cc8fb5d9 ”私も、これまでご尽力頂いた皆様にどうお詫びして良いか、誠に申し訳ありません。”  突然の修羅場に畑山は震え上がり、どうしていいか分からなくなってしまった。すると、辻が慌てて、退出して来た。 「辻さん、一体何が起こったんですか。」 「まあ西園寺オーナーがお怒りになるのは覚悟していたんだが、これは、ちょっと治まらないな。畑山君、高橋さんは何処に居るのかな。」 「えっ、ああ、今尚子さんと共に控え室に行っていますが。」 「済まないけど、簡単に状況を話すから呼んで来てくれないか。実は昨晩ホセが、企画を降りたいと言ってきてな。支配人も、一生懸命説得したんだが全く聞き入れてくれないんだよ。」 「ええ!、だってこの企画の発起人は、宮本支配人ですよね。」 「ああ支配人は、ホセをこのままにしたくない思いで彼のために興したんだけど。当のホセ本人が、誇り高くてな。自分のフラメンコギターを見世物のように扱ってほしくないという意識が強くてね。良い奴なんだが、今回ばかりは頑ななんだよ。」 「そうですか、ダンスホールでの演奏の話は聞いてますが、まだその事が尾を引いているようですね・・・分かりました、急いで事情を話して呼んで参ります。」  畑山は、持ってきた料理を入り口の脇に置くと、慌てて足早に戻って行った。 # コツコツコツ・・・ それから間もなくして、高橋が焦りの顔で畑山と戻って来た。 「辻君、話は聞いたよ。まず先に僕に話しておいてくれれば良かったのに。」 「すみません。突然だったので、後手に回ってしまいました。」 「こうなってしまったのは、もう仕方ない。とりあえず料理を出して、オーナーの怒りに水を差してみようか。」 「そうですよ、駄目で元々、スペイン人は気分屋だから、料理を食ったらホセも気が変わるかも知れませんよ。」  畑山の後押しの言葉に、高橋は思わず本音を口走る。 「う~ん・・・そんな簡単には、いかないような・・・。」 「とにかく、申し訳ありません。藁(わら)をも掴む思いです、高橋さん、畑山君、宜しくお願いします。」 「とりあえず清水の舞台の気持ちで、凌(しの)げるかやってみるよ。辻君、クビになったら君のところで雇ってくれよな。」  高橋は、大広間の前で険悪な場面の兼次達に、一度大きく息を吸ってから声をかけた。 「失礼致します。」  辻が、話していたように、腕組をして憤り奮えている兼次の前で、宮本が両手を前に突いて頭を垂れて座っている。 「おっ、高橋か。もう料理は要らないぞ、フラメンコは夢で終わったからな。」  高橋は、怒りの治まらない兼次の顔色の様子を上目遣いで確認しながら、低い声でゆっくりと具申した。 「話は、辻さんから聞きました。宮本支配人も、この様に自身の恥も飲んで謝っていらっしゃることですし、ここは一旦落ち着かれてはどうですか。」 「高橋、俺は宮本君が本当に自身の責を持ってやって来たのか疑問だ。謝って済むような事業を、俺に持ってきたことに腹を立てているんだ。」 「まあまあ、今回残念なことが起こってしまいましたが、尚子様はまだ諦めていませんよ。それに成果として、みんなで楽しく作ったスペイン料理の数々があるじゃないですか。ホセさんも、故郷の味は何年も頂いてないでしょう。フラメンコは一旦残念な事になるのかもしれませんが、出来上がった料理には何の罪もありません。食していただきませんか。」  高橋の機転の効いたこの言葉で、兼次も助かったのだろう。一旦抜いた怒りの刀を、どう鞘(さや)に納めていいか考えていたようだった。
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