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「きっと明日は素敵な日になる」
青空の下、吸血鬼はそう言って灰になる体を惜しむことなく捨てました。はらりはらりと崩れていく鈍色は僅かな間宙を彷徨うと、花弁のように地面に広がっていきます。
「おう、きっと星がきれいな夜だ」
少年は力尽きた灰を一片残らず集めると、ピカピカに磨かれた革のポシェットに仕舞いました。吸血鬼だったそれは花びらよりも軽いので、入れるたびにふわりふわりと踊ります。小さな欠片まで掴むのはとても大変で、粉になったものは土ごと取りました。
とてもとても面倒な作業です。けれど少年は嫌な顔ひとつせず、むしろ清清したと言わんばかりの穏やかさで手を動かしていました。
───何しろ今日少年は、悪い吸血鬼から解放されたのです。弛む頬を誰が止められましょう。
空は祝福として青色を見せ、遠くの海は風に頼んで優しい潮風を送っています。世界が手を叩いてことの顛末を見届けました。
ハッピーエンディング、後はもう幸せに暮らすだけなのです。
「バラがきれいだったぞ。お前が精気を吸わないから、つやつやしてる」
少年は晴れやかな気持ちで城に凱旋すると、薔薇の庭を通り抜け、急いで奥の寝室に向かいました。そこにはひとつ質素な棺桶がありまして、少年はポシェットに閉じ込めた灰をその中に撒いてしまいます。黒い棺は少年が寝転んでも余り、中には柔らかい底敷きがあって、凹んだ影は人の形にも見えました。
それは吸血鬼の寝床だった場所です。吸血鬼は広いベッドでは眠らずに、いつも重たい蓋をわざわざ閉めて眠っていたのです。
「ベッドの方が広いのにな」
くつくつと笑いながら、少年は凹みに合わせて灰を寄せていきます。頭、首、肩から胸、そして手足。何となく形になると、それは人の名残りにも見えました。
「こんくらいでいーだろ」
そして少年は用意していた薔薇を一輪、灰の身体に添えて蓋を閉めました。ふう、と息を漏らして脱力すると途端に眠気が襲ってきます。
「ふああ……ねむ、」
いつも昼間に寝ていたので起きていることに慣れていないのです。大きな口で呼吸をすると、少年は閉じた棺桶の側に座り込み、上体を預けました。頬に触れるひんやりとした感覚が気持ちよくて眠気は増していきます。襲い来る睡魔に抗わないでいれば忽ち意識は闇へと落ちました。
───起きたら、何をしようか。少年は幸せで胸を膨らませ、夢を見ます。静かな夜の、優しい夢でした。
遠くの方で子守唄が聞こえます。薔薇の森で君を待つ──…それは少年がいっとう好きな歌でした。伸びやかな歌声はいつだって夢の世界に花を咲かせ、小鳥を風に乗せました。時には恐ろしい化物が現れて花園をめちゃくちゃにしましたが、誰かに撫でられた感覚の後、溶けて消えていきました。
目が覚めると外はまだ青空でしたが随分薄く、空気が湿っています。
「雨がくる前にかいもの行かないと」
行ってきます、返事のない空間に呟くのはこれまたいつものことでした。
少年は森を抜けると近くの村を通り過ぎて町に向かいます。例え急いでいたとしても村には意地悪なカボチャがいるので行きたくなかったのです。
「今日採れたトマトはどうだい?真っ赤でおいしいよ」
「いつつ」
「はいよ、どうぞ」
「ありがとう」
大きな声で売り子をする女性から買った赤い実は説明の通り鮮やかで美味しそうでした。少年はトマトが好きなので大きい物を指差して選びました。他にも鶏肉やパンを買うと少し重たいくらいの荷物になりましたが少年は平気そうに両手で抱えて帰路に着きます。
帰り道に通った村では吸血鬼が死んだと喜ぶ声が聞こえてきました。目があった老人や大人たちによくやったと褒められて、少年は自慢げに笑いました。
───そう、少年が吸血鬼を殺したのです。そして吸血鬼は少年に殺されてくれたのです。
城に着く頃には空はもう重たくて、荷物をしまっている間に泣き始めました。ぽろりぽろりではなく、ごうごうと。大泣きする前に帰って来れてよかったと安心した直後、ぴしゃりと音が空気を裂きます。
「ひっ」
黄色い稲妻が何処かに落ちたのでしょう。少年は刹那の光と大きな音が苦手で、びくりと跳ねた肩は次に怯え縮こまってしまいました。
「はやく、」
───夜になれ。胸中は懇願でいっぱいです。夜になれば……夜は、少年にとって安らぎでしたから、望んでしまうのも無理はありません。
ひとりでいる怖い時間は、どんなに長く感じてもふわふわの毛布にくるまっていれば過ぎていきます。
少年はかたりかたりと震える指で耳を塞ぎ、夜の訪れと雷鳴が遠ざかるのを待ちました。それからまた暫くすると、劈いていた稲光は消え空は茜色に染まっています。
庭の薔薇がたっぷりと露を乗せて美しさをアピールしていますが良くあること。あと少しで待望の時間を迎える少年にはどうだっていいことでした。
「よるだ」
まあるい呂律で放たれた音は、誕生日ケーキを前にした子供のように歓喜で満ちていました。少年は抱えていた毛布を投げ捨てると吸血鬼の寝室へと向かいました。
跳ねる身体で、弾む足取りで訪れたその部屋は、がらんどうでした。閉じた黒い箱も、開いた気配はありません。
「?おい──…」
返事どころか声の余韻さえぱたりと消えてしまう不思議に、少年は訳が分からず背筋を震わせました。
そうして覚束ない足取りのまま、鎮座する棺の側に行きます。───ギィ、決して軽くはない蓋を、よいしょよいしょとずらしました。
「なんで、」
中には人型の灰と、爛々と咲く薔薇がありました。
ドッと冷や汗が背を伝い、全身の血の気が引いて指先はあっという間に冷たくなりました。
ああ、どうして。
「どうして、起きてこない?」
いつだって、腹が減っていてもいなくても、怪我を負っていても健康でも、生きていても殺されても。どれが身に降りかかっても微笑んで、夜になれば起き上がる化物の筈なのに。
「……おい、吸血鬼」
泥棒にでも盗まれたのか、不安は音になって転がりました。
何故呼んでも返事が来ないのか、何故夜に起きて来ないのか、少年にはとんと見当がつきません。銀の弾丸で撃たれても、聖水を頭から樽ごと被っても、十字架を押し付けられてもニンニク料理を出されても何も、なにもなかったのに。
先ほどから少年の手先の震えは止まりません、縮こまる背は胎児のように幼気で可哀想でした。
「──吸血鬼は聖水でも十字架でも太陽の光でも死なないぜ」
あまりにも不憫なのが気に入って、偶々遊びにきた悪魔が教えてくれました。この悪魔は吸血鬼の友人で、本当のことも言いますが嘘ばかりの悪魔なので少年は信じきれずに睨みました。
「怖いねえ、今回は嘘じゃねーよ?ともだちが死んだんだ、俺だって悲しいのに」
「っなんで!じゃあなんで死んでんだよ!?」
悲痛な叫びは「なぜ起きないんだ」とも響きます。悪魔はニタリとしていた口元を一文字に結ぶと少年の前に来て、とても静かに言いました。
「お前が殺したからだろう?」
ひゅっと喉が鳴ります。悪魔は、その名に違わぬように悲しい言葉たちを並べ始めました。それらはとても鋭利に、少年の喉元に突きつけられています。
「あいつはちょっと特殊でもあったけど、吸血鬼ってのは基本的に肉体はない魂だけみたいな存在だ。コウモリになったり狼になったり、女になったり霧になったり」
そういえば吸血鬼は狼になるのが得意でした。中でも艶ある毛並みの、美しい銀狼に。少年は何度もその鼻に助けられたことや、寒い時期に暖を取ってもらっていたことを思い出します。
「肉弾戦とかは当たらないから最強だし清らかな物とかは浴び続けたらわからねーけど数回くらいなら火傷程度。だから」
「、」
そんなことでは簡単に死なないと悪魔はうたいます。そうでした、吸血鬼はとても強く負けた所など見たことがありせん。
村人が何人束になろうとも、依頼されたハンターが訪れても、別の種族が城欲しさに襲撃してきても。
「吸血鬼は《死を受け入れた》瞬間に死ぬ」
もう、出したい音すら見つかりませんでした。少年は晴天の中、灰色の花びらになっていく姿を脳裏に描きます。
色鮮やかに、鮮明に。真っ青な空の下、しろがねの御髪が透けるように柔らかかったことを。整った尊顔から滲む、慈愛のあか色に目を奪われたことを。
「……お前、村人に言われてあいつを日の下に連れ出したろう」
「……、」
───吸血鬼は下の村人たちに恐れられていました。嫌われていることを吸血鬼も自覚していたようですし、毎度送り込まれる刺客に倒されてあげられないことを嘆くような失礼なやつでした。
ある日、ひとり町に向かった少年を村人が呼び止めました。吸血鬼や少年を見るたび顔を歪めて口を閉ざし、姿が見えなくなったら汚く喚き立てる腹の出た南瓜です。
『吸血鬼は悪いやつだ、存在しちゃいけない』
『人間の血を吸う悪い吸血鬼』
『殺さないとお前も殺されるぞ』
『聖水も杭も十字架も駄目だった、あとは太陽を試すだけだ』
『吸血鬼を昼間に連れ出せ、それだけでいい』
『一度でいい、一度殺してくれたらいい』
南瓜は大きな口で唾を飛ばしながら叫きました。しかし、吸血鬼は村人たちの血を飲んだことはありません。もちろん少年も、舐められたことすらありません。
吸血鬼はヒトの血よりトマトの方が好きだと言い、更に言うなら薔薇の精力の方が好んでいました。……それでも強大な存在は、そこに居るだけで恐ろしかったのでしょう。それは仕方がありません。
南瓜の言葉を可笑しいとは思いながらも、少年は人間だったので、人間の言うことがきっと正しいのだと思いました。
───正しくなくても、何度でも甦る吸血鬼を《一度殺せばそれでいい》と言ったので、ならその通りにしてやろうと。その後吸血鬼が蘇生しても関係ないと。
そうしたら、もう自分たちに何も言って来ないだろうと思ったからです。
そうしたら、自分と吸血鬼だけで、静かに暮らせると思ったからです。
『 死んでくれ、吸血鬼 』
だから伝えました。天気を尋ねるような気軽さで、欲しいものを強請る嘘のない子供の強欲さで。
親に捨てられ森で彷徨い、あと少しで死んでしまう命だった小さな少年を助けてくれた恩人──……大好きな、吸血鬼に。
そして吸血鬼は、笑顔で応えました。悲哀も絶望もなく、ただ普通のことのように。愛息子のお願いをついつい聞き届けてしまう、親のような眼差しで。
「きゅう、け……っ、吸血鬼……!」
頑なに名前を教えてくれないあか色が嫌いでした。怖がるだけの喧しい外野が嫌いでした。少年の本当の心を何ひとつ理解してくれない化物の思考回路が嫌いでした。
吸血鬼と《同じ》じゃない自分が、嫌いでした。
『 きっと明日は素敵な日になる 』
夜にうたう「おはよう」が好きでした。
朝に告げられる「おやすみ」が好きでした。
「あ……」
滑らかな白銀の毛並みを梳かすのも、夜の街を散策するのも、大きなトマトを頬張るのも、薔薇の庭園で追いかけっこをするのも、雷に怯える頭を優しく撫でてくれるのも。
───全てを与えてくれたひと。
「あ、あぁあああぁ、あ」
少年はバンシーのように、遠くまで聞こえる声で叫びます。哀れな子供の丸い背に、悪魔はやれやれと肩を落としました。
「…今日は満月だ。狼男に喰われる前に城に帰りな」
悪魔は少年に最後の優しさを見せました。悪魔は別に少年なんてどうでもよかったのですが、古い友人の形見と思えばただの人間も惜しむべき存在に思えたからです。
けれどその友人を殺してしまった少年に良い気持ちはしません。彼等は感情の名前など気にしないので、嫌な気持ちになったと帰ります。
暫くして、城には誰もいなくなりました。しかし誰も住もうとはしません。
何故ならそこはあの吸血鬼の城なのです。奪いに来ていた別種族も本当に住処が欲しかったわけではなく殆ど腕試しのようでしたから、誰のものにもならないことに不思議はありません。
人間ならば以ての外でしょう、呪いがないとも限らないと封鎖の策が立てられただけ。
もう誰も住まない、近寄らない森の古城には薔薇の花だけが年中芳しく咲いています。
ハッピーエンディング。オープン・ザ・ゲート。名前も知らない誰か達は幸せに暮らしました。
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