返された三年間

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 そいつが祥太だとすぐにわかった。  達彦が入社した小さな製造会社。そこで新人として挨拶する自分をぼんやりと見ている人物が、中学三年間同じクラスだった井上祥太だったのだ。  正確には、達彦が三年間いじめ倒してきた相手。 「少し、時間いいかな」  入社初日の昼休み、達彦は昼食もそこそこに、自席で食事をしていた祥太に話しかけた。 「……何か用」  コンビニで買ってきたパンをモソモソと食べながら、祥太は龍彦と目も合わせずに答える。 「高校、一緒だったよな。井上祥太、だろ。俺のこと覚えてるかな、三好達彦だよ」 「……何の用」  目は合わせないままだったが、祥太の心が堅くなるのが達彦にはすぐわかった。 「あ、謝らせてくれないか。中学の頃のこと……俺、お前にずっと酷いことばかりしてきて……」 「入社したら昔いじめてた相手がいたから、僕が周りにバラす前に謝っておこうってこと?」 「違う! 俺はずっとお前に謝りたかったんだ、けどお前は中学卒業した後にすぐ引越しちまって、会いに行けなくて……」  話し続ける達彦の前に、祥太が三本指を突きつけてきた。 「僕は三年間君とその取り巻きにいじめられ続けた。引っ越した後もまともに外にも出られなかったし、今でも誰かが笑う声が聞こえてくるたびに泣きそうになるんだ。それを今ここで、ごめんなさいの六文字を言うだけで済まそうなんて、虫のいい話だと思わない?」 「……じゃあ、どうすれば?」  祥太は三本指を揺らしながら答える。 「今日から三年間、僕が君をいじめ返す。君にやられた事を、覚えている限りやり返す。僕が三年間どんな気持ちでいたか、君にも体験して欲しいんだ。本当に僕に謝りたいと思うなら、耐えられるはずだよね?」 「……わかった、三年だな!」  達彦は即答した。祥太に謝りたいと心から思っていたからだ。  その日の夜、達彦は階段から突き落とされて入院した。 ♢  達彦の怪我は、退社時に階段を踏み外して転落したことになっていた。一ヶ月の入院生活を経て会社に戻ると、達彦の席は入社した日と別の場所にあった。配置換えしたんだよ、と祥太が教えてくれた新しい席は、部屋の隅っこに無理矢理机を突っ込んだような場所だった。  入社初日につけていたはずの、親から就職祝いで貰った腕時計は、転落事故のどさくさでいつの間にかなくなっていた。災難だったね、と慰めてくれた祥太の腕に、そっくりの腕時計があった。  階段から突き落としたのも、腕時計を盗んだのもおそらく祥太だろう。だが達彦は何も言わなかった。祥太が入学祝いにもらったペンケースを盗ったのも、ふざけて祥太を階段から突き落としたのも達彦だ。それを宣言どおり祥太はやり返しているだけ。達彦はただ耐えるしかなかった。  その後も祥太からの報復は続いた。目が合うと嘲るような顔で目を逸らす、廊下ですれ違う時にわざと足を引っ掛けたり肩をぶつける。その後汚いものに触ったかのように肩を念入りに払う。机に置いてあった細かい備品はしょっちゅうなくなったり、ゴミ箱に突っ込まれているのが見つかるようになった。  一つ一つは小さなことでも、積み重なるとこれが結構効くのだ。セミが鳴きはじめる頃には、達彦は食欲もなくし五キロ痩せた。  実家の母親にも心配されたが、夏バテだと言い張って達彦は会社に通い続けた。  その日は休日出勤で、事務所には祥太と達彦だけが出勤していた。ラジオが小さく流れる事務所で、祥太も達彦も黙々と机に向かって仕事をしている。 「そろそろやめたいんじゃない?」  出し抜けに仕事の手を止めて祥太が言った。目はパソコンに向いたままだ。 「……やめるって、何をだ」 「まだ二年以上もあるよ。我慢できるの?」  達彦が参り始めているのに祥太も気づいているらしかった。それでもまだ続けるのか、と聞いている。 「心配ない。続ける」  達彦は祥太の方を向いて断言した。祥太は「ふぅん」と言っただけで、再びキーボードを叩きはじめる。なんとなく気まずくなった達彦は、ノートパソコンの画面に目を戻しながらぽつぽつと話し始めた。 「……中学の頃、俺の親父が浮気してるのがわかってな。家に帰っても毎日毎日夜中まで喧嘩ばかりだった。喧嘩が激しくなりすぎて近所の人に警察呼ばれたことだってある。心底恥ずかしかったよ」  祥太は何も言わずに作業を続けている。 「二人とも自分のことばっかで、俺のことなんか誰も見ちゃくれねえ。だからその時は俺もめちゃくちゃ荒れてて……」  ラジオから十二時の時報が流れた。祥太はノートパソコンを閉じて立ち上がると、達彦の前まで来て、無言で手を差し出した。 「あ、ああ」  中学時代、達彦はしょっちゅう購買に祥太を使い走りに出していた。もちろん買い物は翔太の自腹である。その報復に、祥太は毎日昼休みになると達彦から金をもらって昼食を買いに出るようになった。  その日も達彦は財布から千円札を二枚抜いて祥太に渡す。祥太はそれを受け取ると、その手をそのまま達彦の顔に向かって振り抜いた。 「君の事情なんかどうでもいいよ」  それだけ言うと、血が噴き出す鼻を押さえた達彦を無視して、祥太は事務所を出て行った。 ♢  それからまた数ヶ月経ち、秋から冬になる頃には、また様子が変わってきた。  それまで単に同じ部屋で仕事をしていただけの他の社員も、達彦に対する態度を変えてきた。あからさまに無視するようになったり、達彦の目の前で、彼抜きにして遊びに行こうなどと話すようになったり。それでも達彦が何も言わないでいると、やはり備品がなくなったり、仕事の通知文が達彦にだけ回されなかったりするようになり始めた。ようはナメられはじめ、ストレスの捌け口にされ始めたのだ。  達彦は耐え続けた。過去に家庭が荒れたストレスを祥太で発散した自分である。胃薬や頭痛薬を飲みながら、達彦はひたすら耐えた。  普通ならここまでになれば上司が介入してきてもおかしくない事態だが、この会社の社長は祥太の叔父だった。社長は昔祥太がいじめられたことを知っていた。その主犯が達彦であることまでは知らなかったため、面接に来た彼を採用してしまったが、入社後に交わされた祥太の三年間の報復のこともすでに祥太本人から聞かされている。  だから事務所内の雰囲気がどれだけ悪化しようとも、警察沙汰にでもならない限りは社長は傍観を続けるだろう。    ある意味苦行を続ける沙門のような心境で、一年、二年と達彦は耐える日々を送っていた。これは禊なのだ。三年間を耐え切れば、晴れて彼の罪は許される。苦痛を受ける毎に、自分がかつて犯した罪が浄化されていくのだ。そう思うと、祥太に会わない休日が逆に疎ましくさえ思えるようになっていた。  三年目になると、祥太以外の人間はもう達彦に構わなくなっていた。仕事や環境の変化に伴って、達彦はもうどうでもよくなっていた。今はまた、祥太と一対一である。祥太の報復はどんどん激しくなっていった。周囲に人がいなくなると、容赦なく殴られたり蹴られたりするようになった。スマホは三回トイレに沈められ、財布から札が消えたことも何度もあった。そのたびに達彦は、もうすぐ三年、もうすぐ三年とうわごとのように繰り返す。その顔は、まるで何かの記念日を待ち侘びるように穏やかなものだった。    残業帰りの駅のホームで、偶然祥太と鉢合わせた。祥太は少し先に退社していたが、電車を待っているうちに達彦が追いついたのだ。  向こうは吐き捨てられた吐瀉物を見るような顔で達彦を見てきたが、もはや慣れっこになっていた達彦は構わず隣に立ち、祥太に話しかけた。 「明日で三年だ」 「お前と同じ目に遭って、あの時のお前の気持ちが本当にわかった気がする」  回送電車がホームに入ってきた。深呼吸する様にドアを開閉させ、また出て行く。 「明日、改めて会社で謝らせてくれ」  達彦は一人で話し続けていた。  通過列車が猛スピードで二人の前を走り抜けていく。この駅はまだホームドアが設置されていない。列車の起こした風が二人を撫でていく。 「これでやっと、お前と対等になれる」  達彦は晴れ晴れとした顔をしていた。  構内アナウンスが、再び通過電車が通る事を告げる。白線の内側までお下がりください。  通過列車の近づく音が聞こえてきた。  それまでじっと黙って立っていた祥太が、不意に達彦の耳に顔を寄せた。  そしてそのまま倒れるように線路へと身を投げた。  駅員や警察、救急隊などがなだれ込む中、達彦はその場にずっと立ち尽くしていた。頭の中に、祥太が最期に耳打ちした言葉だけが繰り返し聞こえていた。  『お前を許すくらいなら、死んだほうがましだ』
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