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どこをどう切り取っても、キラキラした人生を歩んでいる人だと思う。そんな、まるで私とは生きる世界が違うみたいな彼にあれを聞かれてしまうとは本当についていない。きっと似合わないことしてると思われてしまっただろう。
彼からしても、聞きたくもないものを聞かされて迷惑だったはずだ。どうしてかは分からないけれど、用事があって来たであろう音楽室に入りたくても入れなくさせてしまったことを考えるとさらに申し訳なくなる。しかも結局、ギターの弦を緩めるのを忘れてしまっている…最悪だ。
「はあ…やっぱり学校なんかで弾くんじゃなかった」
吐き出した声が生暖かい空気に包まれて消えていく。走ったせいで熱くなってしまった体が、その熱を放とうとこめかみに汗を流した。
“あのさ、藤崎って”
そういえば、逃げ出す直前に彼は私の名前を呼んでいた。私なんかの名前、知ってたんだって少し驚いた。ちゃんと話したこともない、しかもクラスも違う人間のことをよく知ってるなって。彼みたいに有名ならともかく、こんな目立たない私のことなんて知らなくて当然なのに。さすが、たくさんの人に好かれる人は違う。
彼は私に何を言おうとしたのだろう。そもそも、どうして彼は放課後の音楽室なんかに来たのか。気になるけれど、今更それを確かめる方法はない。
今まで一度もちゃんと関わったことのない私達なのだから、それはきっとこれからも変わらない。明日には私との出来事なんて忘れているだろうし、忘れていてほしいからわざわざ私から確認することもない。あんなものを聞かせて嫌な気持ちにさせてしまったことだけはどうか許してほしい。
知られてしまったことに対して不安はあったものの、みんなから優しいと言われる彼なら面白がって周りに話すようなことはないような気がしていた。それにたとえ彼が誰かに話したところで、きっとみんな私のことなんて興味ないだろう。だから、大丈夫。無理矢理自分にそう言い聞かせて、私も今日のことは早く忘れてしまおうと決めた。
「…Tempo Rubato寄ってこう」
なんだかまっすぐ家に帰る気にもならなくて、家に向かっていた足を私は別の方向へ進めた。
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