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穂積は戯れに利用するためのホテルに目星をつけ、上野駅構内のショッピングビルの喫茶店に向かった。残暑は厳しく、ひたすら続く真夏日と熱帯夜に体力を奪われる。こういう時、歳を取ったなと思う。これから可愛い子に会うのは楽しみだが、そこに少し気怠さが紛れ込む。混雑する店の中、辛うじて席を取り、穂積はひと息ついた。
大学はどこもまだ夏休みなので、それを言い訳にして、産学連携の件に関してはなるべく考えないようにしたいのだが、難しいところである。昨日の会議で、理系学部のある大学にこだわらないほうがいいのでは、と意見した。
「ほづみんの意見はもっともなんだが、そういう大学と繋がっておいて、優秀な卒業生に入社してもらいたい思惑が上にあるみたいなんだよなぁ」
営業企画統括部長の岸圭輔が苦笑して言った。何だそりゃ。くだらない、うんざりだ。良い商品をつくることに集中して欲しいものだ。それにきっしゃんまで、長いモノに巻かれてんのかよ。……思い出すと、穂積の神経がピリッと逆立つ。
アイスコーヒーのストローをぼんやりといじっていると、斜め後方に人が来た気配がした。そちらに首を巡らせ、それが若い男性であることを確認した。
「山中穂積さんですか?」
青年は硬い声で言った。穂積はうん、と軽く応じた。写真より幼く見えたが、彼は間違いなく今夜の戯れの相手だった。
「今日はご指名ありがとうございます」
彼は穂積の前に回ってきて、立ったままどぎまぎと鞄から名刺入れを出す。もの慣れない様子が見ていて面白い。
「たかふみです、よろしくお願いします」
彼が言いながら、クラブの名刺――それは美しい薄青色をしていた――を差し出す。それを右手で受け取った時、穂積にいきなりデジャヴが訪れた。
――経営学部の桂山暁斗です、よろしくお願いします。
あ、と口から声が洩れそうになった。あれからもう15年も経つのか。
「ごめん、座って……冷たいもの飲む?」
「あ、え、お時間いいんですか?」
穂積はたかふみを座らせ、俺はいいよ、と言って店員を呼んだ。たかふみはアイスティを頼んだ。彼に自分の名刺を渡して、さりげなく彼を観察する。健康的な肌の色に、おそらく何も触っていないほぼ黒の髪。目鼻立ちは整っていて、地味だがこざっぱりした雰囲気に好感が持てる。少し桂山に似てるのか、と穂積は妙な気持ちになる。
桂山暁斗は大学の3年下の後輩で、営業1課の課長だ。穂積がゲイをカミングアウトしてからも、変わらず接してくれる者の一人である。彼は4年前に離婚した上に、仕事に忙殺されて、毎日くたびれた顔をしている。かつて就職活動でOB訪問にやって来たとき、今日のたかふみのように、緊張して変に生真面目な口調になって、可愛らしかった。それを思い出した……何とも複雑な気分だ。
「美味い?」
律儀にいただきますと言ったたかふみが、アイスティを美味しそうに口にするのを見て、訊いた。
「はい、とてもいい香りがします」
にっこり笑うたかふみは、大したことのないものでもいつも美味しそうに飲み食いする桂山を、また想起させた。……おかしいな、俺あいつをそういう対象として見たことないんだがな。
ホテルは空いていた。穂積が部屋を決め、たかふみがキーを取る。彼は少し緊張しているようだった。
「デビューしたてなんだってね、俺で何人目なの?」
穂積は部屋に入って、鞄をソファに置きながらたかふみに訊いた。今までスタッフに自分から話題を振ったことがなかったが、たかふみの気安い空気につい水を向けた。
「5人目なんですけど……いろいろうまく出来なくて」
たかふみは穂積から受け取ったジャケットを抱いたまま、決まり悪そうに俯いた。綾乃は、彼が少しおっちょこちょいで、クレームというほどではないが、客から軽く意見を貰っていると話していた。穂積は励ますように言った。
「ああ、まだ慣れないよな、あまり気にしないほうがいいよ」
しかしたかふみは、風呂の用意を始めると、何やらがちゃがちゃし始めた。おっちょこちょいというよりは、テンパリストらしい。タオルを腰に巻いただけの姿で、えっと、と言いながら広い浴室の中をうろうろして、やっとスポンジを見つけると、必要以上に泡立ててごしごしと穂積の背中を流し始めた。こういう場での洗いにしては力が強すぎる気もする。……それはまあいい、一生懸命なのは微笑ましい。
ただ慣れたスタッフなら、こういう時から、耳のそばで話したり肩や腕に触れたりして、ムードを作るところだ。仕方ないので穂積のほうから、彼の髪に触ってみる。さらさらした、くせのない美しい髪だった。
たかふみはびくりとなり、脚を洗う手を止めた。思わず穂積がごめん、と謝った。彼は穂積を見上げ、すみません、と焦ったように言った。まるでどっちが客だかわからず、穂積は可笑しくなった。
丁寧にボディソープの泡を流してくれたのは良かったが、浴槽に張られた湯は熱すぎた。うめるための水が蛇口から落ちるのを二人して眺めるうち、たかふみはすっかり気落ちした様子を見せた。
「おいおい、別に何も起きてないんだからそんな顔するなよ」
つい新入社員に対するような口調で、穂積は言った。湯に手を入れると、良い具合になったので、たかふみを促して広い浴槽に入る。穂積はたかふみが片先まで湯に浸かるなり、自分から抱きついてやった。ひゃっ、と声をあげて、たかふみは身体をこわばらせる。
「5人目だろ、生娘みたいな声出すな……それとも演技か?」
穂積に言われて、たかふみはまたすみません、と謝った。肩に回した腕に力を入れてやると、たかふみの戸惑いが伝わってくる。こういうからかいプレイも楽しいではないか。
やがてたかふみは少し身体の力を抜き、穂積の両脇に手を差し入れてきた。恐る恐るという感じで、背中に手が回ってくる。滑らかな肌が脇腹に触れる。男らしい体つきだ。彼の早まった鼓動に気づき、可愛いな、と穂積は思った。
「……僕たぶんこの仕事向いてないです、でも嫌いじゃないんです」
たかふみは意外なことを口にした。意を決したように上気した顔を上げて、穂積の目をじっと見る。緊張を孕んだ熱気を持つ視線に、穂積のほうがどきりとした。何だ、こんな色気を隠し持っているのか。
「神崎さんが山中さんは優しいから……心配せずに行けばいいって言ってくれました、ほんとにそうで良かったです」
たかふみは穂積の身体に巻きつけた腕に力を入れて、胸に顔を埋めるような姿勢を取った。初心な硬さと意外な大胆さに、いわゆるギャップ萌えしてしまう。やばい、なかなか可愛いぞ、こいつ。これはお買い得だ。穂積はらしくなく、自分の半分の年齢の青年のぎこちないサービスに、軽くときめいていた。
穂積は湯の中で、たかふみの背中をしっかり抱き直す。たかふみはひとつ息をつき、身体を柔らかくした。……2度目の指名もアリかも知れない。綾乃ちゃんの提案通り、育ててやろうじゃないか。
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