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「春湖」
もう一度彼女の名前を口に出すと、ただその事に涙が溢れる。
あの星空を見上げた日から、僕は夢の中を彷徨っていただけだったのだろう。
何度も落ちてくる星に酔っぱらって、なんだかとてもいい夢を見ていた。
やはり、彼女と二人きりにしてもらって良かった。息子夫婦は僕の事を心配して、この家に泊まってくれると言ったのだけど、僕の気持ちを察した娘に「お父さんはお母さんと二人きりになりたいんだよ」と諭されて彼等は帰って行った。娘だって母親との最後の夜を ここで一緒に過ごしたかっただろうに、僕の喪服やら、明日必要になるであろう諸々をさっさと準備してくれた後「明日の朝、早めに来るわ」とだけ言って、自分の暮らすアパートへと帰った。
彼女が息を引き取ってからは、虚しい程に慌ただしいだけだった。僕が右往左往しているうちに彼女は何処か別の部屋へ連れていかれて、再びその顔が見れた時には もう綺麗に薄化粧が施されていた。
一昨日の夜、僕が見舞いから帰ったあと、彼女はひとりで眠りについた。
そして、そのまま二度と目覚めることをしなかった。
もう84歳だった。特に苦しむ事もなく、眠るように逝ったらしい。年齢を考えればそれは幸せな死に方なのだろう。もう十分生ききった。彼女自身に尋ねたら「もう十分過ぎるくらい生きた」なんて言うかもしれない。
でも僕は、こんな日が訪れるということを 想像もしていなかった。あと何日かすれば、彼女はこの家に帰ってくるものだと信じていた。僕はもう齢86で、その内の62年を彼女と共に過ごしてきた。けれど、まだ十分ではなかった。こんな歳になってもまだこの先の未来があると、その側には当たり前に彼女もいるのだと、そう錯覚してしまっていた。
まだこんなにも彼女のことが好きだったとは。
すっかり おじいさん と おばあさん になった僕たちにとって、この別れ方はごく自然なもので、むしろこちらの方が当たり前であったのに、彼女との別れがどうも信じられない。
彼女の名前を口に出すだけで、まだいくらでも心が騒ぐ。長い年月を経て染み着いた照れくささと、初恋のように疼く恋情がせめぎ合う。
「いやですよ。みっともない」
いつもの調子でそう言った彼女の声は、僕の想像でしかなくなってしまった。
もう目覚めることのない彼女の横顔は、信じられないほど美しかった。
その肌も、この耳も、あの瞳も、すべて燃えて煙に混じる。そんなことが未だに惜しい。何十年もあったはずなのにまだ足りない。もっとその声が聴きたかった。
僕もこのまま眠りについて、いっそのこともう目が覚めなければいいのに。彼女の姿を目に焼き付けたままの眠りから二度と目覚めない。そう憧れると、少しだけ心が弾んだ。
濃藍はまださめやらぬのに彼女はいない。
僕からはもう彼女に何も伝えられない。彼女の想いを知ることも叶わなくなった。だから僕は彼女の横で、子供のように泣きじゃくっている。そういえば、彼女の前でこんな風に泣いたことなど、今までに ただの一度もなかった。
彼女が隣で眠っている。こんな夜は数えきれない程あったはずなのに、どうしてだか僕は、これほどまでに溢れる想いを 彼女に伝えないでいた。
彼女と最後に交わした言葉はどれだろう。もしあれが最期だと知っていたら、僕は彼女に「愛してる」と言えたのだろうか。
60年前のあの日の言葉は鮮明に覚えているのに、一昨日の何気ない会話はよく覚えていない。でもひとつ確かなのは、彼女が最後に耳にした僕の声は「愛してる」とも「ありがとう」とも言っていない。今はそんなことが酷く虚しい。
彼女は最後にいつもの調子で、僕になんと声をかけてくれたのだろう。永遠の別れ際の記憶さえ曖昧で、僕にはよく思い出すことができない。
このまま後悔に打ちひしがれ、乾涸びることができるのなら、僕はまだいくらでも泣いていられるのに。彼女がいなくなってしまったこの世になんて、もう何の未練もなかった。
こんな此岸に、取り残されて途方に暮れた。
朝焼けは濃霧でぼやけ、月の名残りは滲んでいる。初めての朝にあるべきものが、今日はちゃんと揃っていなかった。
「大丈夫ですよ。これでも用意周到なの」
また、僕が想像しただけの彼女の声がする。
呆気なく先に逝ってしまったというのに、何の用意をしていたというのだろう。
この陽が昇りきった頃には 彼女の眠る姿でさえも、僕の想像でしかなくなってしまうというのに……
「おはよう。お父さん、大丈夫?お父さんのことだから、一晩中泣いてたんでしょ?」
そんな事を言いながら、娘が急に入ってきた。
「随分と……早かったじゃないか」
いつの間にこの家に来ていたのだろうか。僕は涙でぐちゃぐちゃになった顔を 部屋着の袖で慌てて拭い、どうにか体裁を取り繕おうと試みた。
「ほら、やっぱり泣いてた。お父さんはお母さんの事が大好きだもんね?」
全てを見透かしたような娘はそう言い当てて、少し得意げな顔をしている。
「やっぱりって……」
「なにを今さら。いいじゃない、娘としても誇らしいわ」
僕が年甲斐もなく一晩中泣いていたとしても、一向に構わないらしい。
そんな娘は まだ夜が明けきらない事すら気にしていないといった様子で、てきぱきと家を整え始めていた。
「母さんの所から帰る時、最後にどんな会話をしたのか、よく覚えていないんだよ……」
新しい線香に火をつけている娘の背中に向かい、思わずそう溢してしまった。
「そうね。お母さんだって、それが最後になるだなんて 思いもよらなかったでしょうし」
「それがな、何だかすごく悔しいんだ」
「どうしてよ?お互い最後だなんて知らなかったんだから、きっとたいしたことは話してないと思うわよ?消灯の前に兄さんが迎えに来てくれたんでしょ?じゃあ、おやすみとか、また明日とか、そんなところね、きっと」
いつもと何ら変わらない口調で、娘がぴしゃりと言い放つ。
すると曖昧だった記憶の一部が鮮烈に瞬き、彼女の声がもう一度聴こえた。
彼女には全てお見通しだった。死が二人を別つ時、もしも自分が先に逝ってしまったら、悲しみに打ちひしがれる僕が こんな風に一晩中泣くということも、いっそ彼女の後を追いたいと願ってしまうということも。きっと随分前に彼女はそれに気付いていて、だから全て用意していたのだ。僕が一人ぼっちにならないように、彼女のことを ちゃんと覚えていられるように。
彼女は「おやすみなさい」と言って眠りにつき、僕は夢のような日々から醒める。
ああ、最期まで彼女にはかなわないな。
僕はひとり、
酔のさめかけの朝をみあげた。
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