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婚約破棄を申し込む
長い長い道のりを歩けば、頭も少しずつ冷めてくる。
リルフィーネの隣を歩くのは、いつも殿下だったと、見なれない高さにあるサグアロー大佐の横顔を見る。殿下の頭はサグアロー大佐の肩あたりで、陛下と同じ紺色の髪だ。サグアロー大佐の白い髪とは違う。サグアロー大佐は騎士団長を勤めているので、殿下よりも逞しい腕をしている。
(これからずっと、何をするにも6年間歩んだ男と比較してしまうのだろうか。)
サグアロー大佐は、リルフィーネの足が僅かに重くなった事に気づき、嬉しそうに問う。
「宜しければ、お戻りになりますか?皇后陛下には日を改めて御相談す……」
「いいえ。サグアロー大佐。大丈夫です。」
あと少し歩けば、皇后陛下の私室の扉がある。声を被せて返事をしたのは失礼だとは思ったが、リルフィーネの気持ちが前のめりの姿そのものだった。
サグアロー大佐は、期待などしていなかったのか、苦笑し足を進める。見覚えのある扉が、いつもと変わりなく入室の許可を得て開かれた。
数歩進み、頭を低く最高礼のカーテシーで待つ。
「フィーネちゃん、そんな他人行儀な挨拶なんて止めてと、いつも言っているでしょう?」
顔を上げたリルフィーネは、尊敬する美しい淑女に心からの笑みを返した。
皇后陛下は私室のソファーにかけ、自分の隣をポンポンと叩く。リルフィーネが腰を落とすと、リルフィーネの前の席にブレッスド公爵が座り、サグアロー大佐は皇后陛下の後ろへ立つ。
お茶が揃い、皇后陛下はリルフィーネの手を包みながら口を切る。
「相談と聞いたけれど、なにかしら?」
心配そうに訪ねてくるが、皇后陛下が知らないはずがない。
「陛下、申し上げます。クライアス殿下は、私とは違う方に想いを寄せているようです。このまま、知らぬ存ぜぬと婚約者の立場でいることは苦しいですし、殿下の為にならないと思います。殿下の方から、是非婚約破棄をして頂きたいのです。」
「そう。それがフィーネちゃんの気持ちなのね。」
まるで天気の話をしていたような返答に、焦りを感じる。
「でも、きっと婚約破棄なんて心配しなくて大丈夫なのよ?」
案の定、望んでいた回答は得られない。
「クライアスに話をしてみた?」
殿下の名前にリルフィーネは眉を顰める。殿下とは話せていない。殿下は常に彼女のそばを離れず、自分が近ずけば婚約者として苦言を言わなければならなくなり、周りが望む修羅場を作ってしまうからだ。軽はずみな行動で、道化になるのはごめんだった。
「殿下は常に彼女の傍におりますので。」
そう述べるより他ない。
「皇后陛下、どうかお願い致します。殿下の幸せの為です。」
「あら、馬鹿な男の幸せなんて考えなくて良いのよ?私たちは王族ですもの。国の平安だけ、思いを止めればいいの。」
皇后陛下から直接、「息子の幸せなどどうでもいい。国の平安のために婚約破棄は出来ない。」と言われてしまえば、リルフィーネの気持ちなど思慮する価値もないと言われたようなものだ。ぐっと言葉が詰まる。
「けれど、聖女であれば?殿下の婚約者として国に留めておく方が良いのではないでしょうか?」
「聖女とはまだ決まっていないはずですよ?」
リルフィーネもそう思っていた。けれど...殿下の振る舞いを見て、人々は勝手に話を進めてしまっている。
聖女とはごく稀に「癒しの力」を持つ人がそう呼ばれる。なかなか現れず、以前の聖女は120年も前に亡くなっていた。そもそも魔法を使える者が少なく、使えても使えこなせるように訓練するには、時間や教授が必要になるので強い力は貴族に偏っている。その中で現れた「平民」の「聖女」かもしれない人物が、婚約者の浮気相手なのだ。
「それはまだ小さな傷しか癒せないというだけで、傷を癒す力を持つものは間違いなく聖女様です。」
リルフィーネは噂で聞く言葉を口にした。
「仮に聖女であったとしても、クライアスと婚約する必要はありません。」
「けれど、聖女は常に王族との婚姻により、国内で保護されて来ました。」
「フィーネちゃん。王族はクライアス以外にもいます。わざわざ、婚約済みの男性と婚姻する必要などないでしょう?」
「殿下がそれを願っているのでしたら、そうするべきです。」
何度も聞かされた、人の言葉を皇后陛下に投げかける。リルフィーネはその1つとして、答えられるものはなかった。皇后陛下の受け答えに、胸の奥がぐっと熱くなる。
同じ事を思っても、リルフィーネが言えば負け惜しみだった。皇后陛下が言葉にする事で、間違っていなかった、自分は間違っていなかったのだと安堵してしまう。
「クライアスに聞きましたか?婚約破棄を願っているかどうかと。」
安堵もつかの間、リルフィーネは硬い空気を飲み込んだ。聞けてなどいない。むしろ、沢山の言い訳を並べて、近づくことさへ避けてきたのだから。
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