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空気が音を鳴らさないように気をつけながら、何度も息を吸う。けれど、リルフィーネの肺には何一つ入ってこない気がした。
(違う!そんな事は望んでいないわ!!)
グワン、グワンと耳に聞きなれない音が響く中、殿下と皇后陛下の声は聞こえていた。
「は、母上。なにを…。」
「クライアス。貴方か愛を知り手に入れたいと願う成長を母として喜びます。けれど、恋愛とは平民のものである事を思い出しなさい。王族である以上、意志とは関係なく婚姻は結ばれるものです。」
穏やかな声がリルフィーネの心を切り裂く。
「何を怖がることがあるのですか?罪を受ける訳ではありません。すぐに養子の話が上がり、子爵くらいで彼女との願いを叶れば、貴方が述べた保護も成せます。貴方の愛も叶います。」
「わ、私っ。ごめんなさい。殿下から何か奪うつもりなんてっ…ごめんなさい。無かった事にっ……」
少女の高い声が、耳を突き刺す。
(…ああ。挨拶も交わせていないのに、話しかけては駄目。)
リルフィーネは思考に何もかもが追いつかず、鯉のように口をパクパクと動かすだけだった。
「それとも、彼女より王子としての地位を取るのかしら?貴方の愛は。」
案の定、彼女の言葉を無視した形で、皇后陛下は言葉を告げる。彼女は気づいていないが、それは彼女にも問われている事だ。王族でなくなる殿下は要らないのか、と。
(答えないで。だめっ)
リルフィーネは出来ない呼吸をする事を諦めて、息を止め自分を叱咤する。
(今行動しないと後悔するっ……)
息をとめたまま、殿下を背にする形で皇后陛下の前に跪いた。
「お待ち…ください。皇后陛下っ。殿下と私に時間をください。」
公爵令嬢として育ったリルフィーネには、膝を着いた後にどうすれば、跪くことになるのか分からないまま、胸の前で震える手を合わせ祈るように懇願していた。
「フィーネちゃん……。そんな事をしてはいけません。また、ジョセフィニアに叱られますよ?」
優しい声にまた打ちのめされる。
物事が何一つリルフィーネの望んだ方向には向かっていない。息を止めたまま何とか頭を働かせていると、かすれていた思考がハッキリしてくる。
呼吸が出来ないのは空気を吸いすぎている事。皇后陛下がまだ、リルフィーネを「殿下の婚約者」として接している事。またジョセフィニアから教育される立場が続く事。クライアスに向けた言葉はリルフィーネにも向けられていること。
「皇后陛下。私も同罪です。私も都合よく責任から逃げようとしていました。…ですので、どうか私と殿下に今一度時間を下さい。」
「フィーネちゃん。もし時間を空けたとしても、クライアスの失態はゼロにはなりませんよ?」
「…はい。」
「クライアスが出す答え次第では、時間を空けた意味さへ無くなるかも知れませんよ?」
その言葉でリルフィーネは確信する。止めていた息を、更に吐いたあとゆっくり吸えば、空気が肺に入る感覚を覚える。
「はい。大丈夫です。」
言葉と共に見上げれば、皇后陛下の眼差しにぶつかる。示唆されていた。
「お待ちいただけるのであれば、殿下がどのような答えを出しても、どんな結果が起きても、皇后と陛下との意志に従います。ブレッスド公爵家の名に誓います。」
皇后陛下は穏やかにただ優しく微笑んだ。
「ブレッスド公爵令嬢。許します。2日後に、時間をもうけます。」
「ありがとうございます。皇后陛下。」
リルフィーネが無意識に頭を深く下げてしまうと、「だから、そんな事したらジョセフィニアに叱られるわよ?」とまるで何事も無かったように微笑んだ。
サグアロー大佐が動き、石のように固まっている殿下の背を押して退出を促す。
部屋から出る直前に、皇后陛下が視線を向けた。
「交渉の基本はふさわしい対価の提示からと学んだはずです。」
止まってしまった背を、サグアロー大佐がもう一度押す。
リルフィーネもブレッスド公爵から支えてもらいながら、礼をして部屋をあとにした。
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