板蓋宮

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 乙巳年六月十二日の夕刻。  時ならぬ激しい雨で板蓋宮の南庭は、瞬く間に水浸しとなった。宮の主、宝姫大王(たからひめのおおきみ)(斉明天皇)は難を避ける為、すでに別の場所に退避していた。留守に残された衛兵達も逃亡し、もぬけの殻となった板蓋宮に今、ひとつの人影が滑り込んだ。  その人影は、名を小角(おづぬ)といった。雨避けの笠と簑で見えないが、年の頃十余歳ばかりの金髪碧眼の少女である。  周囲を警戒しながら南庭に入った小角は、そこに異様な物を見つけ、確信した様子で駆け寄った。  隠すというよりは、恐ろしい物を封じ込めるかのように板障子が何かを取り囲んでいる。  小角はその一枚に手を掛け、意識して呼吸を調えると、力まかせに引き倒した。  板障子に囲まれた狭い空間を覗き込むと、一瞥して人と分かる遺骸が横たわっている。遺骸が身に纏っている装束は、薄闇の中で色合いまでは分からないが、確かに見覚えがあるものだった。小角の視界には、遺骸の腰から背中の辺りまでしか入らない。彼女はさらに板障子を引き倒し、遺骸の上半身を露にした。襟首の先にあるはずの頭部はなかった。辺りを見回すが、それらしき物は転がっていない。夥しく流れたはずの血も、雨に洗われ、地の底へ染み入ってしまったようだ。  小角は狂ったように残りの板障子を蹴散らして引き倒し、遺骸の足元に落ちていた沓を見つけて拾い上げた。  不思議なほど汚れていないその沓の牡丹錦は、間違いなく小角が縫った物だった。その人物とは、蘇我入鹿(そがのいるか)。この国の未来を背負った指導者であり、何よりも小角が自らの生涯を捧げようと誓った最愛の男だった。  小角は天を仰いで慟哭した。降りしきる雨を押し戻すほどの涙が、翡翠のような彼女の瞳から溢れ流れた。
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