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「……あ、もう10時だ。そろそろお茶持っていこうかな。今日は掛川の深蒸し茶に決めた♪」
【深蒸し茶とは、通常よりも蒸し時間を2倍〜3倍長くしたお茶の事である。長く蒸す事により味に甘みや深みが出ると云われているほか、茶葉の組織がほぐれる事によりカテキンや食物繊維などの成分をより多く摂取できるとも言われている。】
手際良くお茶の用意をして、店の隣の建物へ持って行く。
彼女が上機嫌でお茶を差し入れしようとしている相手。
「裕太さーん。お茶持ってきたよー」
「あー、葵ごめん。今来客中なんだ」
「あっ、それは失礼しました。じゃあここに置いておくね」
「……いや、ちょっと協力してほしいことがあるんだ。入ってきて。」
「??……分かった。失礼しまーす」
暖簾をくぐると、すらっとした長身の着物姿の男性がこちらを向いて優しく微笑んだ。花に例えるならば、白百合なんか似合うのではないか。
品のある涼しげな顔立ちだが、笑うと目尻が下がって甘さが感じられる。
彼の名は深川裕太(ふかがわ ゆうた)30歳。
骨董品や古美術品を扱う個人商である。3年前に茶舗の横の敷地に事務所兼住居を建てて以来、こうしてお隣さんとしての付き合いが続いている。もとい、葵はお隣さん以上の感情を抱いてもいるがそれは彼には秘密だ。葵自身もこの感情が恋愛的なものなのか尊敬からくるものなのか分かっていない。ただ、今の自分を作り上げているものの中に彼の存在は不可欠、それだけは確信が持てた。
3年前。
彼が引っ越して来た時、葵はちょうど大学生で将来の事に迷っていた時期だった。お茶の事を考えるのは好きだったが、それを仕事にしたいほどの情熱は無かった。というより仕事として周囲に明かしたくなかったのかもしれない。周りと同じように働き、遊び、恋をして、流れに任せて楽しく生きていけたら良い、そう思っていた。
そんなある日、親に頼まれてお茶を差し入れしに行った際、彼に出会った。ちょうど高級茶器を扱っていた時で、葵は彼よりも茶器が目に入り、瞬く間に興奮してしまった。
「有田焼の染付蓮文!素敵……!」
笑顔で目を輝かせる葵。
「よく知ってるねー、君。江戸時代から続く香蘭社の物だよ」
裕太がそばへ歩み寄りながら話しかける。
「温知図録に掲載された図案がモチーフなんですよね!東京国立博物館で見て感動しちゃって!……すみません……!いきなり興奮して大きな声出して……」
挨拶程度の相手にこんな姿を見せてしまった、と我に返って恥ずかしくなる。
赤くなっている葵に裕太は優しく話しかけた。
「気にしないで。僕もそれ好きなんだ。それにしても、さすが老舗のお嬢さんだね。目が肥えてる」
「そんなことないです……。こんな事、人に得意気に話せることじゃ……」
葵は急に声が萎んでしまった。
「その得意気に話せないジャンルが生業の身としては、そんな風に言われるとショックだなー」
「あ!ごめんなさい。。!そんなつもりで言ったわけじゃ……」
「ははっ。冗談冗談(笑)……でも何でそんな自信無いの?どんなジャンルでも好きな事を楽しく話せるって素敵じゃない?」
裕太が涼しげな表情のまま続けるものだから、いつの間にか葵の恥ずかしい気持ちも萎んだ気持ちもおさまっていた。
不思議な人だ。涼しい顔してるのに冷たい感じがしない。雰囲気に飲まれるようにして葵はポツリポツリと話し始めた。
小さい頃から身近にあった日本茶が大好きな事。
それに付随する茶器や掛軸などの美術品にも興味がある事。
でもそれを周りに話すと引かれてしまいそうで、出せずにいる事。
親もそれを察してか、将来の話をしてこない事。
「……ふーん。そんなに周りが引くことかな。
葵ちゃんが夢中になってる事って」
「引くっていうか、返しに困りますよね。
へーすごいねー、くらいしか返せないですよね。
そーゆー事隠して、うまく溶け込んで生きてる方が色々楽なんですよ」
「それで君は楽しい?」
「それは……」
「店番用の愛想笑いでここに入ってきた時の顔より、有田焼見て興奮してた顔の方がずっとキラキラして素敵だったと思うけど」
「それは……。まあ好きな事ですから……」
「蓮の花ってさ」
染付蓮文の茶器を差しながら裕太は話し続ける。
「清らかで気品が高い事を表すんだよ。泥に染まらないで大きな花を咲かせるからね。だから中国では俗人に染まらない君子の花とされてるんだ」
「俗人に染まらない……」
「人と違う事を好きになるのは悪い事じゃない。
むしろ人と違う事に関心を持てる才能だと思っても良いと思う。とっつき難いイメージがあるならそれを払拭して興味を持ってもらえば良い。幸い君はそれがやりやすい環境にある。老舗茶舗の令嬢の立場は最大限に利用しなくちゃ」
「そんなことできるかな……」
「できるよ。だけどやるなら本気で努力するんだ。
利用するからには、親の七光りなんて言葉跳ね返すくらいにね。ご両親が君に将来の話をしないのも、中途半端な気持ちで決断してほしくないからだと思う。好きな事を仕事にするのは素敵だけど、辛い時だってある。周りに流されないで自分で決めた事だから誰のせいにもできない。でも、だからこそ頑張れるんだと思う」
やたら熱い話になっているのに落ち着いて聞くことができるのは、彼が涼しげな顔のまま話すからなのだと葵は思った。いつのまにかモヤモヤした気持ちがどこかへ消えていた。
「茶器……たまにここへ見に来ても良いですか?」
「その笑顔、見せてくれるならいつでもどうぞ。あ、それと」
葵の顔をじっと見つめて彼は言った。
「好きな事を話す時の君の顔は本当に素敵だよ。もっと自信持って」
「……ちょいちょい恥ずかしい事サラッと言うのやめてもらえます?」
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