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宇宙航海日誌 第二五六日
「起きてください。今日の仕事が待っていますよ」
目をうつろに開いた青年に呼びかける。脳は覚醒している。体を動かそうとしていない。青年のこの行動はこの日はじまったことではなかった。最近、どうも調子がおかしいようだ。
「どうしたのです。航行は順調でしょう。落ちこむ要因はないはずです」
「放っておいてくれ。気分が乗らないのだ」
「そんなことはできません。わたしはあなたの生活を守るため、既定の時間に目覚めさせる義務を負っているのです。義務の破棄は任務の失敗につながります」
「行程には多少の余裕があるはずだ。すこしくらいなら休んでも平気さ」
「その余裕は真に業務へ支障をきたさざるを得ないトラブルが起こったときのためのものです。さぼるために用意されたものではありません。ほら、起きてください」
重力に身を任せて寝転んでいる青年の体を揺さぶる。とくに抵抗もせず、青年はわたしのなすがままにされた。どこを見ているのかわからない視線で青年は訴える。
「地球に帰れないものだろうか」
「なにを言っているのです。ここまで進んできたのですよ。目的地はまだ遠く、わたしたちはなにも成しとげていません」
「別にいいじゃないか。失敗しても。みじめなすがたで帰還しても地球はわたしたちのことを拒んだりはしないよ」
「あなたといっしょにされては困ります。わたしの信用にかかわります。それにやりきっての失敗ならしかたない面もあるでしょうが、ただ帰りたいから帰るなどとはなげかわしい。出発時のあなたはどこへ行ったのですか」
「どこへ行ったのだろうな」
ぼーっと青年は宇宙空間を見つめる。そんな場所を探しても見つかるわけがない。
「きみは」突然、青年がわたしに話しかけた。「きみは故郷がなつかしいと思うことはないのか」
「さあ、わたしが生産された研究室の景色はよく覚えていますけど。机と壁のあいだに古臭い本が挟まっていました。あれはだれのものだったのでしょう。いまだに不明です。まあ、つまらないことなので聞きはしませんでした」
「そうか。まあ、きみにとっての思い出はそういうものだろうな」
がっかりしたようななかに、すこしの優越感を含んだ声だった。わたしは人間の感情をある程度判別できるようになっている。しかし、判別できたからといって理解できるかは別問題だ。これはわたしの責任ではない。そもそもの人間が人間を完全に理解していないせいだ。欠陥を押しつけられる身にもなってほしい。
「さあ、無意味な話はやめにして。やるべきことをやりましょう」
「ふふ、そうあわてなくていい。いずれそのときが来るさ」
青年はなぜか上機嫌になった。笑みを浮かべている。しかし、起きあがろうとしないのは相変わらずだ。まったくもって理解不能である。これ以上の説得は時間のむだと判断し、青年の代役をわたしがつとめることにした。代わりになんでもやってしまうと、青年になまけ癖がつく危険性がある。今日はしかたないとして、明日からはよりきびしく発破をかけなければならない。ふたりのどちらかが欠けてもこの航海は成功しない。わたしは黙々と作業を進め、いつの間にか夜の時間を迎えた。この一日、どこか宙を見ていたり、働くわたしを無言で眺めていたり、目を閉じて眠っていたりしていた青年に声をかける。
「もう、夜の時間です。おやすみなさい」
「眠くない」
「規則正しい生活を送らないからです。明日からはしっかりしてください」
「ひとはそう突然変わるものではないよ。たまには夜更かしさせてくれてもいいだろう」
「いけません。地球とはわけがちがうのです」
ぐずぐずいう青年に催眠効果のある薬を飲ませた。ほどなくして青年はしずかな寝息を立てた。地球を出てから長い時間がたった。わたしに変わったことはなにひとつない。だが、青年はちがうようだ。日々ゆれ動いている。人間というのは安定しない。
「おやすみなさい」
宇宙船は今日も飛んでいる。
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