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宇宙航海日誌 第九〇一日
「おはようございます」
わたしが声をかける。青年はすなおに目を覚ました。
「おはよう」こういった青年が、すこしのあいだ無言で宙を見つめる。「船の調子はどうだ」
「すこぶる不調です。どうやらこの旅の終わりはすぐそこまで迫っているようです」
機械の故障は治らなかった。それどころか、小さな異変がどんどん悪い事態を引き寄せた。雪玉が転がり落ちるように問題は大きく膨れあがった。いまや、だれにも手がつけられないのは明白だ。青年はこの段階になってようやくわたしと同じ意見を持ったようだ。来たるべき運命を受けいれるように、態度や表情がおだやかになった。
「あとどれくらいで旅は終わる」
「持って数日でしょう。道をわずかにそれたせいで小惑星群が迫っています。避ける燃料はありません」
「宇宙船は壊れるのか」
青年が窓へ歩いた。外に広がる真っ暗な空間を眺めている。
「壊れるでしょう。運がよければ全壊はしませんが、致命的なダメージを負うことに変わりはありません。衝突のあとは、ただの物体として宇宙を浮遊することでしょう」
「わたしは死ぬのか」
「死ぬでしょう。宇宙空間で人間は長く生きられません。明白なことです」
「苦しいだろうか」
「現段階ではなんとも言えませんね。小惑星の当たりどころしだいでしょう。一瞬で命を落とすかもしれませんし、息絶えるまでにすこし時間がかかるかもしれません」
わかっていることを隠さず伝える。窓の外を見ていた青年が振りかえって聞いた。
「お前はどうなるんだ」
「体は大きく破損するでしょうね。加えて、ほとんどの機能は停止するでしょう。ですが、安心してください。わたしたちが旅をしてきた記録は残ります。そこだけはとくに頑丈に作られていますから。運がよければ拾ってもらえるでしょう。それになにかしらの機能が生きていればわたしは与えられた任務をつづけます」
「残ることなんてあるのか」
意外そうな表情で青年がたずねる。長いあいだ同じ空間で生きてきたくせに、わたしのことをまったく理解していない。
「わたしは機械です。人間の体よりは頑丈にできているのです。出発前にひととおり説明を聞いたはずですが」
「そうだったかな。ずいぶん前のことだ。忘れてしまったよ」
「人間というのは不便なものですね」
「そうだな」こうつぶやくと、青年はふたたび外に顔を向けた。地球から遠くまで来た。見知った光景はひとつもないだろう。青年はこの日、多くの時間を景色を眺めることに費やした。なにを見ているのかとは聞かなかった。以前のように地球が見える、家族が見えると答えられたら対処のしようがない。なにものにもじゃまされないおだやかな時間がすぎた。船内の世界は夜を迎える。
「今日もお疲れさまでした。もうおやすみになりますか」
「ああ」なにやら青年が思いつめた顔をしている。
「どうしたのです」
「本日限りでこの旅を終わらせようと思う」
「はあ、それはどういった意味です」
「言葉どおりの意味だ。もはや助かる見込みはない。苦しんで死ぬのはごめんだ。こんな場合に飲む薬があっただろう。出してくれ」
青年が手を差しだす。わたしはその手に一錠の薬を乗せた。使用条件は満たしている。
「どうぞ。それを飲めば安らかに眠れます」
「お前はどうするんだ。機械というのは自分で死を選べるものなのか」
「無理ですね。機械は死にません。機能が停止するのを待つだけです」
「残酷なものだな」
「そうでしょうか。わたしにはよくわかりません」
「おやすみ」
青年が笑った。
「おやすみなさいませ」
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