2人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
今年の三月から一人暮らしを始めた部屋に、毎夜訪れるものがある。
「オヤスミオジサン」がやって来るのだ。
「それ」は私が眠りにつく時間に窓の外を訪れる。
ずり、ずり、と疲れ切った足を引きずるような音をたて、二階建てのアパートの周囲をゆっくりと巡って一階の私の部屋の窓で立ち止まる。窓のすぐそばにベッドを置いているので、「それ」が必ず私の部屋をうかがうような気配を出すのが感じられる。生きているものではない、異形とかお化けとか、そういう類の気配だ。
ぺたり、と窓に両手をつけて、ずっとそうしている。気付いていない振りをして目をつぶって眠りについた演技をしてみれば、しばらく後に「それ」の気配は消えた。
はじめの内はそうしてやり過ごしていたが、先日、うっかり声をかけてしまった。
普通とはちょっと違うおかしな出来事も、日々の中に組み込まれてしまえばただの日常だ。害を為さず負の感情もなくただ周囲を巡り私を気に掛けるだけのその存在に、私はいつの間にか慣れてしまっていた。
ベッドに入り布団をかぶり、窓の外を巡り始める気配を察知。一周をして私の部屋の窓にぺたりと置かれた手の音。
その日は眠気がひどく、頭がうまく働いていなかった。目をつぶって私はひとこと、口にしていた。
「おやすみぃ……」
あくびまじりの就寝の挨拶。違和感を覚えることもなくそのまま眠りに落ちようとした時、戸惑ったような声が窓の外から聞こえてきた。
『……オ、オヤスミ』
(――あれ)
沈んで行く意識の端になにかが引っかかる。
おやすみと言ってオヤスミと返ってきた。私よりも相手の方がびっくりしていた。そのことに夢の入り口でふふ、と笑いを零す。
なんだか少し可愛いなと、そう思った。
それから私は毎晩「それ」に寝る前に挨拶をすることにした。私が「おやすみ」というと必ず「オヤスミ」と返ってくる。はじめは躊躇いがちに、だんだんと、安心したような色が声に宿る。
(そうか、心配してくれてたんだ)
ちゃんと眠れるかどうか気にしてくれていたのかもしれない。そういう優しい気配をずっと感じていた。
その日から私は「それ」を「オヤスミオジサン」と呼ぶことにした。
最初のコメントを投稿しよう!