夢の中で夢を夢みよう

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 この薬を飲むと、普段の入眠時とは異なる感覚に身を任せることになる。  少々大きめの白い錠剤、多めのぬるま湯と一緒に流し込む。寝付きを良くするためのストレッチも欠かさない。より念を入れるのであれば、青竹踏みも有効だ。  結婚を機に購入したダブルのマットレスは、高反発のベースの上に低反発の薄めの層を重ねた高品質のもので、金額にするとマットレスだけで二十万円を超えた。枕もそれぞれの頭の形に合わせたオーダーメイドのものを専門店で作ったのだが、使用感は上々だ。一緒の夢を見られるといいね、なんて少女じみたことを言いながら一緒の布団に入ってくる彼女を軽く抱きしめながら眠る。  一緒の夢ならもう見ているよ。僕は、今なお夢を見続けている。  しっかりと睡眠をとると、翌朝の目覚めも快調だ。それは彼女も同じらしく、二人で一緒に眠るからといって不思議と途中で起こされるということもない。どちらもいびきをかかないというのが大きいのだろう。まだ目を閉じている彼女にそっと口づけをすると、反応が返ってくる。今日は私の負けかあーと、寝ぼけまなこの彼女が手を僕の背中に回してくる。起きられないよと笑いながら、一緒にベッドの中でゴロゴロする。  共に、歳を重ねていくという僕の夢と、彼女の夢はきっと同じはずだと思いたい。  起き上がり、朝食を食べる。実はパン派な僕だったけれど、彼女に合わせてお米を食べるようになってからはお米ばかり食べるようになった。どちらが言うともなく食卓にご飯と味噌汁が並ぶ。準備された記憶のない朝食を、テーブルを挟んで彼女と一緒にいただきます。  朝食後、職場へ出発する。ほら、早くしないと遅れちゃうよ、そう言いながら先を歩く彼女に追いつこうと、足を早めようとする。早く走ろうという意思を足に伝えるのだが、その意思が足に反映されない。思い通りに足が動かない。彼女はどんどんと先へと進んでしまう。意思と願いが行動に反映されない。  そこでようやく、これが夢なのだと気付いて世界が崩れ始める。  追いかける彼女の背中の解像度が下がっていく。どこからか、軽快な電子音が響き渡る。夢だということに気がついたのが先なのか、その電子音が響いて夢を自覚したのが先なのか。  スマホのアラームを切る。隣に彼女はいない。 「これ以上、この薬を服用するのはお勧めできません」  医者からそう告げられるようになってから、もう一年にもなる。  意図的に明晰夢を発生させる薬が開発されてからもう何年になるだろうか。果たして当時はノーベル賞確実ともてはやされたこの薬のもたらす効果は甚だものすごく、複数の国では禁止薬物指定されてしまっている。それほどの効果を人体にもたらす薬であるならば、当然用法用量を守って正しくお使いくださいとなる。僕もその用法用量は正しくお使いしているのではあるが、しかしそれが常態化してしまうがよろしく無いのは重々承知であり、その重々承知のよろしくない状態に僕はすでに片足を突っ込んでいる。お医者さんは、もう片方の足を突っ込ませないよう懸命に努力するが、肝心の僕自身が両足ともに突っ込みたがっているのだからタチが悪いですねと苦笑する。  個人的にはこの薬の禁止薬物指定には大いに賛成である。その薬のヤバさを身をもって体験中の僕が言うのだから間違いはない。それだけこの薬がヤバいものであると認識しながらも、僕は服用をやめないだろう。これからも、彼女とともに夢見た未来を夢に見続けるために。  ある朝、隣に彼女のいない目覚めがあった。台所から朝食を準備する気配を聴覚と嗅覚が察知する。トントンという包丁のリズミカルな音と、米を炊く香り。まどろみの中で、直接触れているわけではない彼女の存在を感じる。 「おはよう、ちょっと作りすぎちゃったかも?」  いつものように、ご飯と味噌汁に付け加えて鮭のバター焼きと卵焼き。卵と納豆、パックのメカブも置いてある。 「いいね、朝だししっかり食べるくらいがちょうどいいと思うよ、ありがとう、いただきます」  手を合わせ、食材と調理者に対する感謝を述べて箸を取る。ふと気になったことを彼女に問う。 「包丁、何に使った?」 「君のようなカンのいいガキは嫌いだよ」  ノリのいい彼女との、既視感のあるやりとり。これももう何度目になるか分からない。いや、これが初めてかもしれないし毎日繰り返しているのかもしれない。ありとあらゆる場面を切り貼りし、存在しただろう記憶を作り上げる。作り上げた記憶はさらに次の記憶を作るためのピースとして記憶に留め置かれる。そのようにして、幸せな朝のパターンは無限に形成されていく。僕は無限に目覚めていく。目覚めた彼女との朝を何度も繰り返す。朝に目覚め、どこかでこれは夢であると違和感が僕に告げる。世界が壊れてまた朝に目覚める。目覚めた朝がまた壊れて別の朝に目覚める。どうやら再帰的に繰り返されているらしい幸せな朝を、僕は延々と繰り返し続けている。  起きた朝が、まだ夢の中であることを僕は知らずに起き続ける。  ある朝、隣に彼女のいない目覚めがあった。家の中にも存在を感じない。それはきっと、実家に用事があって泊まりがけで帰った日の出来事だ。そういう日もあるのだろうという記憶が違和感なく僕の中に根付く。朝、隣に彼女がいなくても、それは数ある朝のうちのただの一つであると自分を納得させる。朝に彼女がいてもいなくても、幸せな日々がこれからも続くのは変わらないという着想が僕の中に根強く張り巡らされる。隣に君がいない朝も、朝に君が隣にいなかったとしても、目覚めればまた君が隣にいる。そんな着想が、現実の僕に侵食していく。 「これ以上、この薬を服用するのはお勧めできません」  お医者さんに言われたセリフを、夢の中のお医者さんが繰り返す。 「入眠の記憶のない起床の回数が増えれば増えるほど、あなたは現実を失っていきます」  続けて言われたそれは、過去に誰かに言われたものだろうか。それとも僕の潜在意識が危機感を覚えた末に現れた幻覚なのだろうか。いずれにせよ、僕の心は確実に危機を感じ始めている。診察を受ける僕の掌には、あの少し大きめの白い錠剤が握られている。 「さあ、それを飲んで、夢を見ましょう」  彼女がベッドに腰掛け、そう語りかけてくる。記憶に存在しないはずの会話が、パターン化されて僕の夢として再現される。場面は急速に切り替わり、現実にはありえないスピード感で僕の夢として構築されていく。それが逆に、これが現実ではないのだと語りかけてくる。  ある朝、隣に彼女のいない目覚めがあった。記憶の奥底から、今日やらなければならないことが着想として湧き起こってくる。記憶した記憶のない記憶を呼び起こす。今日はあそこに行かなければならない。起き上がり、シャワーを浴びて、手早くパンを胃に収める。約束の時間は午前十時、急ぐ必要もないが、可能な限り長い時間彼女と一緒にいたいので、ちょうど十時きっかりに到着するよう時間を調整して家を出る。  バスと電車を乗り継いで、ドアツードアで一時間。彼女が入院している病院に到着する。受付の看護師さんには、すでに顔を覚えられている。ほぼ顔パスに近い簡単な手続きを済ませ、何度も通った番号の病室のドアをノックする。僕の姿を見て、ベッドから身を起こした君は優しく微笑む。 「どうして、君は死んでしまったの」  ある朝、涙を流す僕を心配する彼女の指が、僕の涙を拭う感触で目を覚ました。彼女の死に心を痛めて流した涙を彼女自身が拭うという矛盾を僕は否定できない。これは夢なのだと分かっていながら、その矛盾に身を任せてしまう自分を止められない。どうかこの朝は現実であってくれと願う朝は、残念ながら現実ではあってくれない。夢の中で、何度目覚めたかも分からないくらいに何度も、幸せな朝に目覚め、幸せな朝を目覚め、幸せな朝へ目覚めた。オーダーメイドの枕を濡らす僕の涙を拭う彼女のいない朝はやってこない。  そんな朝は、やってはこない。 「おやすみ」  あの、少し大きめの白い錠剤を流し込む。先にベッドインしている彼女の温もりを感じながら、ベッドの中でそのまどろみに身を委ねる。意識が何か、大きく丸く柔らかいものに少しずつ包まれていく。地球を丸呑みにしようとする大蛇のようなイメージが、僕の意識の片隅によぎる。入眠の記憶という、原理的に矛盾を抱えているはずの記憶がまた一つ、僕の夢の一つとして刻まれる。いつしか僕は、大蛇に丸呑みにされて延々と夢の中をさまよい続ける。そのような着想から逃れる術を、僕は知らない。  共に、歳を重ねていくという僕の夢と、彼女の夢はきっと同じはずだったと思いたい。  きっといつか、これを別れの儀式なのだと割り切って、目覚める日が来るのかもしれない。でもその時までは、せめて夢の中で夢を夢みることくらい、許してください。
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