午後半休の使い方

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 朝一に、今日の午後休みますと課長に休暇申請を出したら、あっさり決裁してくれた。初めのうちは、急に言われても困るよ、なんて言われていたけれど、最近では課長も諦めたか、何も言わない。 「今日、俺午後半休だから」 隣の席に座る同期に報告する。 「またかよ。新婚だからって、そんなに早く家に帰りたいか」 「そんなんじゃないよ」  午後1時30分。お先に、と聞こえるか聞こえないくらいかの小さな声を残して、職場を後にする。  駅に着くと、家に帰るのとは反対側のホームで電車を待つ。日中のこの時間は、登下校の学生も通勤の人もいなくて駅はガラガラだ。しばらくして、やはり空いている電車が入ってくる。日常から非日常に乗り込む。  20分ほど電車に揺られて着いた駅で降りる。10分ほど歩けば海だ。海岸沿いにはおしゃれなカフェが立ち並んでいる。店先に外国製のビールの空き瓶が並んでいるその店は、おしゃれすぎて一人ではとても入れそうにない。俺は近くのコンビニでノンアルコールビールを買い、ベンチに腰掛けて海を眺めながら開けた。  月の真ん中辺りの水曜日に、午後半休を取るようになった。何か目的があるわけではない。家とは反対方向の電車に乗って、思いついた駅で降りてみたり、職場近くの映画館に行ったり。  半年ほど前に結婚した。アプリで知り合って、1年ほどで入籍。お互い30過ぎていたからなんとなく結婚する方向で最初から付き合って、そのまま結婚した。  3ヶ月くらいは、誰かと一緒に生活することが新鮮だったが、次第に急に一人の時間が恋しくなった。時を同じくして、それまで長く取り組んでいたプロジェクトが終わり、仕事が暇になった。そんなある水曜日の午後、思い立って午後半休を取ってみたのが始まりだった。職場の最寄り駅周辺の喫茶店を2軒はしごし、本屋とCDショップを回って帰宅した。独身の時もなかった時間の過ごし方が、なんだかすごく心地よくて、そこから2回ほど、こうして一人の時間を過ごしている。  時計を見る。ベンチから立ち上がり駅へと戻る。しばらく駅前の喫茶店で新聞を読んで時間をつぶしてから、学生と通勤の人で先ほどより混んでいる電車に乗り、家路につく。 「ただいま」 玄関を開け、あたかも普通に仕事をしてきたように、少し疲れた感じで言う。大抵先に帰ってきている妻は、夕飯の支度をしながら背中で「お帰り」と返す。さっきまで会社を休んでいたことなど、多分気づいていない。 「ちょっと、薄くなっちゃたかも」 味噌汁をテーブルに出しながら妻が言う。 「全然いいよ」 ノンアルではない本物のビールを開けながら俺は答える。 「週末なんだけど」 テレビを見ながら妻が食卓につく。気象予報士が台風情報を伝えている。 「台風くるみたいね」 「ああ、そうだね。天気、どうだろう」 予報では、日本列島に近づいてはこないようだ。気象予報士の解説が2LDKのLDに響く。  静かな新婚生活。特にここまで問題はないはず。料理は妻が、片付けは俺が、というふうに家事も分担できている。会話は少ないが、けんかもしない。 食卓の向かいで、妻は台風の進路予報を見ている。彼女は、この生活をどう思っているのだろうか。  聞かないまま、俺は缶ビールを飲み干した。  翌日、会社に着くなり、隣に座る同期が椅子を寄せてきた。 「お前昨日、早く家に帰ったんだよな」 「ああ、うん」 同期には、家に帰らずブラブラしていることは言っていない。 「夕方、お前の奥さん、駅前の本屋で見かけたぞ」 「え、本当?」 「ああ。昨日、営業の帰りに本屋の横を通ったときに。奥さんの勤め先、こっちの方じゃないだろ。だから、休みか、仕事早く終わったか何かで、お前と待ち合わせでもしてるのかなって思ったんだが」 「ああ、まあそんなとこ」 曖昧に笑って、PCの電源を入れる。  仕事を始めようとしたが、頭の中は疑問が渦巻いている。 なぜ妻が、その時間に駅前にいる?勤め先は全然違う場所だし、事務職だから営業で外回りでもしていたとは考えられない。もちろん休みではない。朝、いつもの通り俺より早く出るのを見送ったのだ。 「本屋で、何してた?」 気になって聞いてみる。 「何って。ただ本棚を眺めてただけだよ。旅行雑誌のコーナーだったから、ああ何か計画でもしてるのかなって、ちょっと思ったが」 「そうか」  同期の、何やらいぶかしげな表情を無視してPCに向き直る。しかし、仕事は手につきそうもなかった。  妻の謎の行動について考える。本屋なんて家の最寄りにもあるから、わざわざこっちの駅まで足を伸ばしてきたとは考えられない。だいいち、会社にいるはずの時間に出歩いている時点でおかしい。しかも、俺の職場近くに来ている。旅行雑誌を眺めていた?旅行に行きたいなんて話したこともないのに。  いちばん引っかかるのは、妻の謎の行動が、俺が午後半休を取っているときに起きていることだ。妻が本屋にいたというその時間帯は、俺は海を眺めてノンアルコールビールを開けていた。お互いに、仕事もせず、家にも帰らず、時間を過ごしていたことになる。これは何の一致なのだろうか。  結局仕事がろくに進まないまま、終業時間が来てしまった。 「ただいま」 玄関を開けても、妻の返事がない。いつも以上に静かなLDのドアを開けると、食卓のそばの椅子に座っている。夕飯の支度はされていない。 「座って」 一言、低いトーンで妻が言う。ただならぬ雰囲気に、おれは着替えもせずに言われたとおり席に着いた。 「なに、どうした」 妻はそれには答えない。一呼吸置いて、口を開く。 「私、あなたのことが分からない」 「え」 相変わらず、妻の言葉に感情の起伏があまり感じられない。怒っているのか、悲しんでいるのか、よく分からない。ただ、これから何か修羅場が来る予感がして、俺は身構えた。 「味噌汁の味加減聞いても、飲まずに大丈夫って言うし。週末の予定聞こうとしても、台風の話にすり替わっちゃうし」 打って変わって現実的な話題に俺はやや拍子抜けする。 「何の話?」 「昨日の夕飯の時の話だよ」 昨日の食卓での会話を思い出す。俺はビールと気象予報士の話に集中していたが、確かによく考えれば、妻からは、味噌汁の味と週末の予定の話をされたのかもしれない。 「ごめん、気づかなくて」 とりあえず謝った。 「謝って欲しいわけじゃないの」 妻が俺の目を見据える。 「わたし、あなたの日常をもっと知りたいと思って、昨日、職場の近くまで行ってみたの。会社は午後半休取って」 午後半休。その単語だけに思わず反応してしまったが、顔には出さないようにして話の続きを聞く 「いつもこういう道通って通勤してるのかな、とか。会社の近くのこのコンビニでいつもお昼買ってるのかな、とか考えながら。そんで、週末の予定聞いても多分曖昧に返されるだけだから、いっそこっちから提案してみようかって思って、雑誌買って家に帰ったの」  妻の目線がリビングのテーブルに目線を移す。そこには『近場で過ごす秋冬定番スポット』という雑誌が置かれていた。 それが謎の行動の正体だったのか。  俺は急に自分が恥ずかしくなった。お互いのことを、よく知らないまま夫婦になった。それで妻は俺のことを知ろうとしてくれている。一方の俺は、現実の生活から逃げるか、気づかないうちにスルーしてばかりだった。 「俺の方こそ、勝手に気持ちは通じ合ってると思ってた」 「うん。黙ってないで、もっと言ってね。味が薄いとか濃いとか」 「わかった。言うようにする。そうだ、週末どこか出かけようか。台風もこっちには来ないみたいだし」 「うん、そうだね。じゃ、ご飯の支度、するね」  妻が椅子から立ち上がる。  お互いの思いをぶつけることすらしてこなかった俺たち夫婦に訪れた思わぬ危機。妻は午後半休を使って、それを切り抜けようとしてくれた。 俺はこれから先、午後半休をどう使うか。それで思いついたことがあった。 「来月辺り、一緒に午後半休取って、海沿いのカフェに行かない?」 二人ならあの店に入れそうだ。
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