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Iと蛇 #1
何故、人は都合よく記憶を消せないのだろう。
良い記憶ほどすぐに忘れてしまったりする。逆に嫌な記憶ほど強く脳内にこびり付く。たとえ忘れていたとしても、何かのキッカケで思い出してしまうこともある。そうやって思い出してしまった嫌な記憶は、新たに脳内にこびり付いて一生消えることは無い。蛇のようにずるずると、まとわり続ける。自分にとっての嫌な記憶は、今も『俺』の体をずりずりと這い巡っている。従って俺──宮村 律──は、誰も好きになれないと知った。
「俺と……付き合ってください!」
真っ赤な顔を下げ、俺に差し出している右手は僅かに震えていた。
きっと、小っ恥ずかしくて死にたい気分なのだろうな。
律は面倒臭いなと思いつつ、そんな目の前の男を無感情に見つめながら適当に返した。
「あー……別にいいよ」
思えばコレが、全ての始まりだったんだ。
Iと蛇 #1
「ねぇ、由伊くん。今日こそは一緒に遊ぼうよ」
「ごめんね。俺、今日も……」
「えー⁉由伊くんもしかして、まだアイツと付き合ってるの⁉」
男が言い終わる前に、よりワントーン上がった女子生徒の良く通る声が遮った。
「うん。付き合ってるよ」
男は落ち着いてにこやかに女子生徒に返していた。
女子生徒は男の返答に不服そうに眉をひそめ、律の方をチラリと横目で見ながら話し続ける。
「ねぇ、もういいんじゃない?そろそろ他の女の子達も由伊くんと遊べるの待ってるよ?あの子ってそんなに、束縛してくるの?私から言ってあげようか?由伊くんはただ……」
「なんで?俺は宮村と居たいから居るだけだよ。気にしないで」
「……由伊くん、優しすぎるよぉ……」
不満げな女子生徒の顔は、男が見ていない所で確実に律を睨んでいた。
そんなのはもう既に日常茶飯事と化していた律はそれらの視線を気にもとめず、さっさと荷物を纏めて教室を出ようと扉に手をかけた。
その時、
「待って!宮村!一緒に帰ろ?」
キラッキラの完璧な笑顔で照れ臭そうに話しかけてくるこの男に、律は溜息をつき曖昧に「……うーん」と返す。
自身の履きなれた上靴のつま先に視線を落とす。
正直、律はもう疲れていた。
事の始まりは約三ヶ月程前。
高校二年に進級し、とりわけ目立つ何かも、どの組織にも通ずるような派手なグループに属せるようなコミュニケーション能力も持ち合わせていなかった律は、新しいクラスに馴染めず昼食はいつも中庭で一人食べていた。
新しいクラスに馴染めず─……と言っても、一年時に友達と呼べる者がいたわけではない。誰も自分にかまってくれない、だなんて悲劇のヒロインぶりたいわけではない。友達と呼べる者が居ないのは全て自分の行いのせい。本当に欲しければもっと必死に貪欲に欲しがればよかっただけの事。それを敢えてせずに一人を選んですごしているのはやはりそれが律にとって一番心地よいと感じているからに他ならなかった。
元々、学校のような閉鎖的な空間が得意ではないことも独りで過ごすことに拍車をかけていた。そんな律が唯一物理的にも精神的にも独りになれる時間を過ごせるのがこの学校の中庭だった。この学校は建物が二つに分けられて渡り廊下でつなげられている。空から見ればカタカナのコの字になっており、真ん中のぽっかり空いた空白部分が中庭というわけだ。中庭の真ん中には大きな桜の木が一本だけ堂々と植えられていて、まるでこの木を囲うように気を遣って学校が建てられたようにも感じる、何ともバランスの良い造りだった。そしてその木に添えられるように茶色い木製の二人掛けほどのベンチが設置されている。これは律が入学した時から……つまり去年の四月にはすでにあった物だが、桜の木の貫禄のせいかベンチの存在は薄いように思えた。ベンチ自体も年季が入っているとは言い難い木目の新しさを感じる。恐らくここ二、三年に置かれた物なのかもしれないな、となんとなく思っていた。そのベンチが古いか否かを気にするほどの繊細さを律は持ち合わせていないので些末なことだが、貫禄溢れるこの桜の木と並んでみてしまうと、ベンチが必死に桜の木を惹きたてようと頑張っているようにも見えて些か滑稽な様だった。建物に遮られて陽のあたりはさして良いとは言えないが程よい風が適度に通っておりあまりの心地よさに居眠りしてしまうこともしばしばあった。そんな中庭の端っこのベンチの右端は入学した時から自分の特等席だと律は勝手に思っていた。
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