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朝の通勤時間帯は幸いである。
鳥たちが活動開始する絶好の観察時間帯である為、否が応でも外に出なければならないが、皆忙しなく一点に集中しているので自分はモブ以下のモノとして周囲に溶け込むことができる。オフィス街へ抜ける駅前公園広場の植栽の陰で双眼鏡片手にハトを観察する。手元には、動きが気になった個体の特徴のスケッチがある。
朝の公園には、暇な老人がベンチに座り込んでパンくずなどを投げているので、結構な数のハトが入れ替わり立ち代わり飛んできていた。ベンチの隣に「ハトに餌をやらないでください」の看板が立っているが、老人は意に介する様子もない。だいぶん視界の経年劣化が進んでいるのか、認知がポンコツになっているのか、……実に自由で羨ましいことだ。職場に行く途中で糞でも落とされてはかなわない、と、人々はハトの群れを大きく迂回してオフィス街へとのまれていく。
自分は、あの群れからドロップアウトしたクチだ。人ごみにのまれ、ノルマを課せられ、上から押さえつけられ下から突き上げられしていくうちに、疲弊して思うようなパフォーマンスをあげられなくなった。まだメンテが効くうちは、会社もあれこれと世話をやいてくれるが、復帰まで時間がかかると見るやそのコストを天秤にかけ、やんわり「無理をするな」と言われる。要は、「さっさと替えを調達したいからお前の席を空けろ」ということだ。独り身だったこと、忙しさに稼いだ金を使う暇もなかったことが幸いして、職を辞した。人を使い捨てにする会社の態度に、心底嫌気がさした。
一時は地元に帰ることも考えたが、変化に乏しいが故ゴシップに飢えている田舎者に、ワザワザ「ネタ」を提供しに行くのも癪だった。生きていくのに支障がなく、適度に周囲から放っておかれる都会の生活が今の性に合っている。当分は、ネットで受注できるアルバイトと多少は金になる趣味、貯金の切り崩しで何とか生きられる。失業保険がきいている間はのんびりしようかと思っていた。失業認定報告書の提出とか、ハローワーク通いとか、そこそこやることはあるが、仕事のプレッシャーが無い所為か幾分復調してきた身には毎日が暇で仕様がなくなった。
そんな時に、あの出来事があった。今でもいささか半信半疑ながらも、やることがあるのは有難い。団体のリーダーに請われるままにビラ配りやハトの観察などの活動をしている。
「あの……もしもし?」
双眼鏡を覗いていたら、後ろから声を掛けられて文字通り飛び上がった。オドオドと振り返ると、にっこり微笑む若者の顔があった。サイズオーバーの白いロングTシャツに、ダークカラーのカーゴパンツ。自分が着たら確実にパジャマになってしまう組み合わせを、さらりとオシャレに着こなしている。
「ペンを落とされましたよ?」
「う…あ、ああ……ありがとうございます」
爽やかな笑顔が眩しい。安物のボールペンを差し出した手に光る手入れの行き届いたツヤツヤした爪が、自分とは段違いの清潔感を見せつける。
「ハト、お好きなんですか?」
「え、ええ、はいっ」
返した声が緊張に裏返った。なんだ。こいつ。初見なのに、イヤにグイグイくるな。これが容姿に恵まれたコミュニケーション強者というヤツなのか。
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