やさしい悪夢

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 足が重い。胸が苦しい。それでも俺は、いつまで続くかも分からないような螺旋階段を、ただひたすらに上がっていく。  けれど、どんなに足を動かしても、俺を追っている巨大な狼のような化け物は遠ざかってはくれない。獰猛に光る牙の隙間からは、絶えず錆びついた金属をこすり合わせているみたいな不気味なうなり声が漏れている。その声を聞くだけで、言いようのない不快感が背筋を駆け上る。 「はあ、はあっ、くそっ……!」  もう駄目だ、逃げ切ることはできない。  そう理解した俺は、すぐ横にあった窓に手をかける。そして風の吹き荒れる空に向かって身を投げ出した。  そして体が地面に叩きつけられる直前、俺は目を覚ました。  ぼやけた視界に映っているのは薄汚れたアパートの天井で、延々と続く螺旋階段でも嵐の空でもない。もちろん、俺を追う化け物だって存在しない。  頭ではそう分かっているのに、さっきまで本当に走っていたかのように、心臓は落ち着きを取り戻さないままだ。  まったくもって最悪な気分だが、悲しいことに、最近ではこの感覚にも慣れつつあった。  なぜだか分からないが、ここ最近、悪夢を見て飛び起きる日々が続いている。細部に差はあるものの、たいていはよく分からない化け物に追いかけられて俺が逃げ続けるという内容だ。  どうにか呼吸を落ち着けようと大きく息を吸ったその時、 「おや、起きてしまったのか。困ったな、どうしよう」 「……っ!?」  ベッドの側から、誰かに声を掛けられた。穏やかで落ち着いた、男の声だ。  この部屋には一緒に寝るような仲の女性も、俺の声に反応して喋りかけてくる高価で高性能な家電だって存在しない。いい年をして一人暮らしだから金はある方だが、無駄遣いはせず堅実に貯蓄しているタイプなのだ。  つまり、この声の主は、俺の許可なく入ってきた不法侵入者だ。  俺は必死に声を出そうと試みるが、かすれた空気が喉を通るだけだった。男の方を見ようとしても、首さえ動かすことができない。まるで金縛りにあったみたいだ。 「ううん、君と直接話すのはまずいんだけどなぁ。いや、まだ夢と現実の間にいるみたいだし、ちょうどいいか」  男は俺の様子など意にも介さず、のんびりと呟いている。  こいつはいったい誰なんだ。強盗か泥棒にしては態度が落ち着きすぎている気がするが。それとも、俺はまだ悪夢の続きを見ているのだろうか。  俺が浅い呼吸を繰り返す中、男は静かに俺に話しかけ始めた。 「ええとね、僕は夢の管理人なんだ。夢の中の登場人物とか、演出とかを任されてる人間なんだよ。理解できないかもしれないけど、そういう仕事があるんだと想像してくれ。それでさ、君、最近悪夢ばっかり見てるだろう? 君にそういうのを選ばれるとね、僕はすごく大変なんだよ。化け物とか殺人鬼を操って、君を追いかけたり怖がらせたりしないといけないんだから」  知るか、俺だって好きであんな夢を見てるわけじゃない。  反論したくても、俺は男の言葉に首を振ることすらできない。 「本当ならさ、美味しいものをいっぱい食べたり楽しい時間を過ごしたり、そういうのが”夢”ってものだろう? 僕だっていい加減、君の悪夢に付き合わされるのはうんざりなんだ。だから、どうにかしてくれないかな? でないと、今度は本当に食べちゃうかもよ、君のこと」  返事ができないのを分かっているだろうに、男は俺に一方的に語り掛ける。物騒なことを言っているはずなのに、彼の声は低く穏やかで、なぜだか心地よい。そしてその声が耳から流れ込み、頭の中をいっぱいに埋め尽くしていく。 「今日から君は、ぐっすり眠れるように努力しなくちゃいけないよ。分かってくれるね? じゃあ、おやすみ」  そこで再び、俺は目覚めた。  細く開いたカーテンの隙間からは、ようやく明るくなり始めた外の光が差し込んでいる。  俺は今度こそ自由に動かせるようになった手足を伸ばすと、大きくため息をついた。化け物と怪しい男と、二段構えの悪夢なんてたちが悪すぎる。  けれどその夜から、俺は実際に『夢の管理人』とやらの言うことに従ってみることにした。  耳栓やアイマスクだけでなく、ホットミルクや睡眠薬だって、安眠に効くというものは何でも試した。運動不足が原因かもしれないと言われればジョギングを始めたし、寝る前のスマホもパソコンも一切やめた。多少費用はかかったが、身の危険があるのだからしかたがない。  安眠方法を試しながら俺の頭の中で繰り返されていたのは、『夢の管理人』の声だった。  今となっては、あいつとの会話がどこまで現実だったのか分からない。もしかしたら、全て俺の無意識が生み出した産物だったのかもしれない。だとしたら、「良質な睡眠をとれ」というのは疲弊した体からのメッセージだろうか。  そんなに消耗しているとは思わなかったけど、最近は残業続きだということは給与明細が教えてくれていた。「悪夢の中でお前を食ってやる」という『夢の管理人』の言葉は、今のままでは過労死しかねないという思いやりととらえられなくもない。  しかし、手当たり次第に試した安眠方法の何かが効果があったらしく、俺は夢なんて見ないほどにぐっすりと眠れるようになる。  『夢の管理人』も、休みが増えて満足しているだろう。なんだったら、今度は俺を褒めてくれるかも、なんて考えていたある夜、俺の部屋に強盗が入って財布やら貯めこんだ通帳やらを一切合切持って行ってしまった。  通報を受けてやってきた警察が不思議がっていたのは、その強盗の大胆さだった。  普通は空き家を狙うのに、間違いなく家主がいるであろう深夜を狙い、しかも堂々と玄関の鍵を壊して入ってきたのだから。  まるで、部屋で寝ている俺が絶対に起きないと確信していたようだと言う。  捜査の途中、俺は警官から妙な箱のようなものを見せられた。部屋の窓の側に置かれていたらしいそれは指向性スピーカーという物で、一部屋にだけ音声を届けることができるのだという。   俺のベッドは窓際にある。カーテンを閉めていても明かりを見れば寝付いた時間は分かるし、夢を見やすいレム睡眠のタイミングで恐ろしい化け物の声を伝えることもできる。もしそんなことをされていたのだとしたら、ここ最近の悪夢続きにも納得がいく。本来なら、俺に悪夢を見せて疲弊させ、入院でもさせるのが目的だったのかもしれない。  だが、そんなことは俺にとってはどうでもよかった。  ただ一つ間違いないのは、あれだけ入念で丁寧な準備をする奴なら、簡単に捕まりはしないだろうということだけだ。  適当に被害届を書いた後、俺は見覚えのないスピーカーを自分のものだと言い張って強引に引き取り、疲れた夜には枕元に置いて眠っている。  夢の合間に、あの柔らかく穏やかな声が聞こえるんじゃないかと期待しながら。
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