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男の悩み
私は不眠症に悩んでいた。
サラリーマン時代は残業だらけの業種だったため、そのときに自律神経が既に壊れていたのかも知れない。
思い返せば眠る時間は日によってまちまち。夜中の二時や三時であることは当たり前で、時には朝方に寝ることもあれば、丸三日徹夜することもあった。
不眠症によって体を壊した私は、会社を退職した後、仕事で培ったプログラミングスキルを活かして、株取引や外国為替、先物取引など投資で大成功を収めていた。適当に汲み上げた収益予測プログラムが思った以上に的中率が高く、サラリーよりも遙かに高い収益を得られるようになっていた。
いまや、蓄えた資金を元に、汲み上げたプログラミングが自動的に利益を生み出してくれる状況だ。投資というのは、ある程度の元金があれば、リスクを抑えてもリターンを増やし続けることが出来る。独身であるし、大して使うあてのない私のような人間にとっては、生活費を稼ぐ手段としては十分すぎるくらいだった。
会社を辞めて時間に余裕も出来た。
しかし、不眠症については改善がされないどころか、むしろ悪化していた。
サラリーマン時代は、それでも会社と家を往復する強制的な習慣が存在したのだが、ある意味自営業の今は、気合いを入れて自制しないと朝晩や曜日の感覚がなくなってしまう。
医者が言うには、時間感覚の喪失は自律神経の不調が著しく、不眠に繋がるそうだ。私はお世辞にも、自分に対して厳しいタイプではないので、眠くなるまでパソコンやスマホをいじっていると、簡単に夜が明けてしまう。眠くなったら寝るというのが、今の私には出来なかった。
不眠外来で医者にかかったり、高級な寝具を揃えたり、ヨガなんかを習ってみたり。しかし、どれも効果的な結果は得られなかった。
脳や内臓にはまるで異常はなく、精神的な疾患のようだ。医者の方が匙を投げる始末だった。
労働から来るストレスからは解放されていたが、やはり人間は睡眠が重要な生物らしい。不眠のストレスは金には困らなくなった今でも、全くもって解消できなかった。
困り果てた私は、スピリチュアルな面にまで目を向けた。
何か悪い霊にでも取り憑かれているのではないかと、有名な霊能者に視てもらったり、霊験あらたかな神社でお祓いをしてもらったりもしたが、何も改善しなかった。まあこれは当然だろう。とはいえ、そういったものにも縋らないといけないほど、私の精神状態は参っていたと言う事だ。
最近では、スポーツジムに通ったり、自宅の周辺をランニングしたりと、あまり得意ではなかった運動をこなして体を疲れさせるようなことも積極的にするようになったのだが、睡眠の質が低いのか、すんなり眠れない上、夜中に細かく起きてしまう。また一晩に、何度も夢を見てしまう有様だ。
夢を見るというのは、睡眠の質が低い証拠で、実際に起床した際、疲労感の蓄積をものすごい感じている。
私の顔には深いクマと色濃い疲労感が常に浮かび上がっており、元会社の同僚からは、収入が上がったのに全然幸せそうじゃないなと揶揄されている。その通りであった。どれだけ貯金があり、時間に余裕があろうとも、日がな一日疲労と倦怠感につきまとわれていて、何をやろうにも手が付けられない状況だった。
そんなとき、その友人の知り合いが、クラウドファンディングで興味のあるものを開発している事を教えてもらった。何でも、最近お役御免になった受付ロボットを回収し、眠りを推進するような機能を沢山付けて、人間の睡眠サポートをするようなサービスを提供するよう改造して販売するそうだ。
一時、ロボット需要は目新しさから主に受付をする汎用タイプが流行したのだが(名前は確か、ポッパーとか言っただろうか……?)、継続した事業としてはうまく行かずに廃棄される筐体が多く、その再利用に目を付けたらしい。
IT業界に身を置いていた私ではあるが、ロボット事業の分野はこれまで全く手を出した事がなく門外漢だったが、前述の通り睡眠を改善してくれるようなサービスにはユーザとして強い興味があった。
友人に無理を言って、その事業の責任者に会わせてもらう場を作ってもらった。完成をとてもではないが待てなかったというのが大きい。
クラウドファンディングを募っているくらいなので、個人事業なのだろう。責任者のオフィスは、都心の駅から少し離れた雑居ビルの一室にあった。
オフィスの中は雑多で整理されておらず、一時期はそこら中の店舗で視た受付ロボットが、電源を切られてうなだれた姿で立ち並んでいた。
私が怪訝な顔で周囲を見渡すと、そのロボット達をかき分けるようにして小柄な白衣を着た男性が現れた。年の頃は40代後半くらいだろうか。
「ようこそいらっしゃいました。この度は、我々どもの事業に強い興味があるとかで。お問い合わせ頂きありがとうございます」
「ええ、何だか無理を言ってしまってすみません」
「いえいえ。私もユーザになり得る方のご意見は重要ですからね。願ってもないことです」
「それで、早速ですが……」
「はい、こちらが開発中の睡眠サポートロボットです」
『こんにちは』
ロボットが、私の前へとすっと歩いてきた。いや、歩くという表現には語弊があるだろう。ロボットはおおよそ一メートルくらいの高さで、腕の部分は上下に動くよう設計されているが、足の部分は安定感を重視してか、観音様のようにどっしりと可動しない作りになっている。下部にはローラーが付いているようで、それが回る事で床の上を滑るように動いているのだった。
顔は、非常に無機質なデザインで、ゆるキャラのような大きな目が特徴的だった。人間の顔に見間違えることはまずなく、大きな目にはまぶたが付いていて、瞬きをするような仕草は出来るが、笑顔や悲しみなど、表情を再現する事は出来ないようになっている。
口元は無数の穴が空いており、そこがスピーカーになっているようだ。
無機質な女性の合成音声で、挨拶をしてくる。
「受付ロボットとして使われていたインターフェース部分はそのままに、様々な睡眠機能を新たに搭載させています。例えば、睡眠を導入するような多数の音楽やホワイトノイズ、アロマカートリッジによる香りでのテラピー、酸素濃度を調節しての高気圧酸素療法、太陽光を模したLEDを使用した自律神経の調律などです」
「なるほど、睡眠に特化した機能が詰まっているんですね……」
言いながら、私は少しガッカリしていた。
責任者が言った機能というのは、もちろん私が試してきたものだった。一般的に睡眠に効くとされる事は試し尽くしてきている。私の知らない、目新しいものがなかったため、落胆してしまった。
責任者はそれを見越しているのか、こちらがわずかに示した感情を察知しても、笑顔を崩さない。
「このロボットの一番の売りは搭載されたAIにあります。睡眠のサポート機能には目新しいものはありませんが、お客様に合わせてAIが効果のある機能をうまく調律、組み合わせをすることで本当にお客様に最適なものを作り上げるソムリエサービスが。私どもは、『おやすみロボット』と呼称しています」
「おお、それは面白いですね」
私は言葉の通り感心していた。
確かに色々なことを試した私であったが、少なからず効果があったものに対してちゃんと分析をしたことがなかったし、組み合わせてみるのもやってはいなかった。不眠に対する諦めにも似た絶望が常にある私の中に、うっすらとした希望の光が差したような気がした。
「もしよかったら、試作品を実際に何週間かご試用されてはいかがでしょう。それでもしお気に召すようなら、私どもの事業に支援を頂ければ幸いです」
「それは是非もないですが、いいんですか? 貴重な試作品を、私などがお借りしてしまって」
「ええ。私どももエンドユーザ様のご意見というのは重要な参考データになりますから。研究開発だけでは、どうにも偏ったデータになってしまう所がありまして。構わないどころか、是非お願いしたいです」
私は、そうしておやすみロボットを借り受けることになった。
オフィスへは車で訪ねていたので、電源を切った状態で後部座席に乗せ、自宅へと持ち帰った。
そこそこの重さがあったので、寝室に独りで運ぶのは少々難儀したものの、私のベッドの枕元に無事設置することができた。
電源を切った状態では、まぶたを閉じて眠っているような表情をしていたが、起動するとぱっちりと目を見開いた。
『おはようございます、ご主人様。睡眠のサポートをするために私は遣わされました。どうぞよろしくお願いします』
合成音声は女性の声なので、何だか畏まられると少々照れくさい。
私はその晩、早速このロボットを使って眠ることにした。
『睡眠にはリラックスが重要です。気分を落ち着かせるクラシックなどはいかがでしょうか』
ロボットはそう言って、スピーカーからクラシック音楽を流す。
聞いたことがある音楽だが、タイトルは知らない。
私は言われるがまま、目をつむりながらその音楽を聴いていた。
すると、いつの間にやら眠りに落ちていた。
『おやすみなさい』
ロボットの挨拶がかすかに聞こえたような気がした。
翌朝、私は目を覚ます。
ロボットの両目から、日差しのような暖かく感じる光が差してくる。
アラームのような小うるさい起こし方ではなく、優しい起こし方に感じた。
『おはようございます』
「ああ、おはよう」
思わず、ロボットに対して挨拶を返してしまった。しかし、それほどまでに気分が良かった。
久しぶりによく眠れた気がする。
しばらくずっしりと両肩にのし掛かっていた、重しのような疲労がわずかに消え失せていた。私はまずシャワーを浴び、コーヒーを入れて朝食を食べた。
書斎では、複数枚添え付けられているディスプレイに、株価の情報がいつものように流れている。
私はそれを軽くチェックしつつ、問題ないのを確認して、リビングのカーテンを開けた。照りつけるような日差しがまぶしい。
気分のいい朝だった。こんな朝をまた明日も迎えたい。
爽快な気分だった。
「いい買い物をしたなあ。もっと投資してもいいかもしれない」
寝室で、今は仕事を終えてうなだれた状態のロボットを見やる。
無機質でつるっとした白い筐体が、不思議と愛おしく見えた。
ロボットが『おやすみなさい』の挨拶をするのは、私がしっかりと深い眠りへと誘われた時だけだった。ロボットには、付属するスマートウォッチがあり、それを使って私の睡眠感度を測っているらしい。
しかし、私の不眠の症状は、そう簡単には改善するものではなかったようだ。数日すると、音楽によるリラックス法は通用しなくなり、何十曲とクラシック音楽を聴いても全く眠りに落ちることが出来なくなってしまった。
するとロボットは、たき火や木のせせらぎ、川の流れといったような自然環境音やホワイトノイズでの睡眠導入に切り替えた。
だがこれも、当初は効果があるのだが、私がすぐに慣れてしまって通用しなくなってくる。
『おやすみなさい』の挨拶がもらえたのは数回程度。新しい睡眠導入法を試し始めた時だけで、まるで長続きしない。
その後も、様々な睡眠導入の機能を、AIがチョイスして、効果のあったものをうまく組み合わせて複合的に実施してくれるものの、やはり効果的なパターンは三日と続かない。
このロボットを借りてから、三ヶ月が経過していた。
私は、最初はいいと感じていたものも、次第に疎ましく感じるようになっていった。もうこのロボットから『おやすみ』の挨拶を一ヶ月ほど聞いていない。愛らしく感じた筐体にも、特に何も感じなくなっていた。図体のでかい目覚まし時計みたいなものだ。
電力消費やメンテナンスの手間などもバカにならないので、明日になったらもう返却しよう。このプロジェクトに対して、三ヶ月試用させてもらった心付けの寄付はしようとは思うが、それ以上の期待はもう持てない。
私はまた、絶望感に包まれながらベッドに入った。
すると、気のせいだろうか。
私がまだ目をつぶって数秒しか経ってないタイミングで、ロボットのスピーカーから音声が発せられた。
『おやすみなさい』
おやすみロボットが優しい声を発した。
私の意識はまだ、眠気を帯びてはいないのだが……。
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