柔らかな夜風にあくびを乗せて

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眠れない……。 野竹七於(のたけななお)は質素な寝台の上で幾度めか分からない寝返りを打った。 いつも通り戦闘機の整備に勤しんだ一日だ。朝から晩まで何機も零戦を空に送り、同じ数だけ地上に帰ってきたそれらを労うように、内部の細かな計器類の調整から翼の裏を磨き上げるまできっちりとこなした。 だから身体は疲れ果てている。今だって足は筋肉がパンパンに張っているし、一日中工具を握り続けた手のひらには何十回、いや何百回目だろう、豆が潰れ滲んだ血が固まっている。 全身くまなく疲労困憊しているのに頭だけ妙に冴え渡っているようで一向に眠気は訪れてくれない。 後数時間もしたら起床を知らせる喇叭が南国の薄ら明るい空に響き渡るというのに……。 とうに数えるのをやめた寝返りを打とうとした瞬間、隣の寝台で横になっている班員がむにゃむにゃと言葉にならない声を上げた。 突然の寝言に不意打ちを食らい、七於の動揺が伝わったのか寝台がギシリと大きく鳴る。 静かな暗闇の中でその音は敵襲を知らせるサイレンと同じくらい大きな音に聞こえて班員たちの眠りを妨げたのではないかと七於は息を止めた。 幸いなことに隣の班員も、同じ部屋で寝ている他の班員たちも各々夢の世界に旅立っているらしく辺りには穏やかな眠りの気配が満ちている。 普段は数人のイビキが競い合うように響いているというのに、今夜に限ってはなぜか皆静かに寝ていて、だからこそ七於は彼らの安眠を妨げたくなかった。 日頃どんな無茶にも文句一つ言わず快く付いてきてくれる彼らに、七於が返せることなど何もないに等しい。ならばせめて彼らの安眠ぐらいは自らが邪魔しないようにしたいのが名ばかりな班長の僅かな願いだ。 ふーっと静かに細く息を吐き出し七於はそっと寝台から身を起こした。月明かりも差し込まない部屋だが、とっくのとうに夜闇に目は慣れきっている。 班員たちを起こさないよう、そっと寝台から下りて七於は廊下の闇に身を滑り込ませるようにして部屋を出た。 今宵の月は下弦の月だった。 常に天気に恵まれているラバウルは昼間にはスコールと呼ばれる南国特有の土砂降りに見舞われるが、夜は大抵雲一つなく月さえ出ていれば基地の周辺を歩くのには苦労しない。 宿舎の外に出て七於はようやく声を乗せて大きなため息をついた。 「はー……。なんでこんなに眠れないんだ……」 原因は、と問われれば確証はないが何となく心当たりはある。ここ一週間ほど一斉に会っていないからだ。 犬鳴一斉(いぬなりいっせい)は七於が想いを寄せる零戦の操縦員だ。まっすぐで正義感が強く、いつも前向きで明るい一斉を七於は初対面の時から気に入っていた。男らしい性格なのに顔立ちはやや幼く、くっきりとした二重に彩られた瞳は大きく可愛らしい。両目の瞼を縦断する傷跡はまだ治ったばかりで痛々しい色合いをしているが、本人は「傷跡の一つや二つ、むしろ軍人の勲章だろ」と笑っているのだから実に逞ましい。 普段は七於の班が一斉の零戦を整備しているのだが、先週から一斉は人手不足の哨戒飛行の部隊に応援に行っている。機体の整備は応援先の部隊付きの整備班が行うため、だから七於はしばらく一斉と会っていないのだ。 機体の発着場所が七於たちが主に担当している発着場と正反対と言っていい北飛行場で、他の零戦機も整備しなければならない上、呉松整備班の班長でもある七於が毎日そこに通うことなど出来もせず、結果一週間一斉に会えていないというわけだ。 たかが一週間と思う反面、それがされど、であることは今夜で痛い程身に沁みた。 通常、搭乗員と整備員は使用している宿舎が異なるため、戦闘機の発着時や整備の時ぐらいでしか顔を合わせる機会がない。 普段は時間に融通の利きやすい一斉が小まめに七於の元へと訪れるが、さすがに島の反対ともなるとなかなかそれも厳しい。 機体の整備だけでなく、班長としての管理任務もある七於にはそれは気軽に会いに行ける距離ではなかった。 たった一週間。たったそれだけその顔を見ていないだけで、その声を聞いていないだけでこんなにも自分は弱くなるのかと七於は苦笑した。 「一斉……」 風に乗ってこの声が、狛犬耳と評される彼の耳に届けばいい。 「一斉……。俺が寂しいと言ったらお前は笑うか。」 お前に会えないだけで、夜も眠れないなんて。情けないと笑うか。 カラッとしたその笑い声でこの寂しさを笑い飛ばしてくれないか。 夜更けも夜更けだ。誰もいないから気にすることなどなくぽつりぽつりと七於は心の内を吐露していく。 そうこうしているうちに無意識に足は浜辺へと向かっていたらしく、にわかに軍靴の底が柔らかな砂地に沈み込んだ。 そのまま波打ち際まで歩を進めてぼんやりと水平線を眺める。 月明かりに照らされ、一条の光が水面に青翠に輝く道を作っている。時折月光を反射した波が明滅するように不規則に真白に煌めいた。 波の音しか聞こえない静かで穏やかな夜の空気で、ようやく頭がほぐれていくように緩み出しほんのりと瞼が重たさを訴えてきた。 一斉はもう寝ているだろうか。何度か見たことのある寝顔を脳裏に浮かべて七於は想いを馳せる。戦時中だ。皆が皆、自分の任務を全うするのに精一杯頑張っているが、やはり地上要員である七於と、戦闘機で敵国と対峙し命懸けで戦う一斉とでは背負うものの重たさも、心身への負担も段違いだ。こんな時間まで起きていたら、当然任務にも身体にも支障が出る。そんな苛烈な環境で彼は日々戦い生きているのだ。 明日も一斉は空へ行く。 どうしても一緒には行けないそこに、心だけは連れて行ってくれとかつて願ったことがある。その代わり、いつまでも一斉の帰る場所であり続けると誓いを立てた。 潮を含んだ風がザアっと吹き、浜辺に茂る椰子と芭蕉の葉が囁き合うようにざわめいた。 その子守唄のような音に、張り詰めたような頭の緊張感がふっと完全に解けた。 自然とあくびが潮風に乗って夜の海に溶けていく。 「……おやすみ」 宿舎へと足を向け、七於は小さく呟いた。 どうか穏やかな眠りを。優しい夢を。 大好きな人に向けた慈しみが溢れたように、ひっそりと月明かりが七於の口元を柔らかく照らした。
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