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幼き日の回想
俺は、五人兄弟の末っ子として、とある裏寂れた農村の貧しい農家に生を受けた。
食べることすら事欠くような、とても貧しい家だった。
幼い俺は、いつもひもじい思いをしていたような気がする。
親の顔はよく覚えていない。
父親も、そして母親も働き詰めだったのだろう。
沢山の子ども達を養うために。
親が家に居ることは余り無く、兄たちが代わる代わる俺の世話をしてくれていた。
けれども、放っておかれることも多かった。
年の離れた兄たちは、畑仕事や家の手伝いやらで忙しかったのだ。
俺は、寂しさに苛まれて泣いてばかりだった。
誰かに俺を見詰めて欲しかった。
誰かに俺のことを構って欲しかった。
誰かに暖かく抱きしめ、そして、微笑みを向けて欲しかった。
寂しさ、そして温もりへの渇望に、俺はいつも苛まれていた。
確か、俺が六歳の時だった。
その朝、母親は俺に鶏肉を食べさせてくれた。
塩を振りかけ、そして火で炙った程度の代物だった。
だが、その時の味わいは、今でもはっきりと覚えている。
ちっぽけで、そしてパサパサの肉だったが、普段は芋や雑穀程度しか口にしていない俺にとって、その味わいは至高のものだった。
この世にこんな旨いものがあるのかと、まさに涙するような思いだった。
無我夢中で貪り食べた。
鶏肉を貰えたのは兄弟の中で俺だけだったことも嬉しかった。
俺だけが親から特別扱いされている、その思いは俺を有頂天にさせた。
食事を終えた俺は、母親から新しい服を与えられた。
勿論、新品などではなく、兄のお下がりの服だった。
けれども、穴だらけで継ぎ接ぎだらけの俺の服と比べると、それは輝かんばかりに見えた。
そして、父親からは、これから近くの街のバザールに出掛けるから、その新しい服に着替えるようにと告げられた。
バザールに出掛ける。
父親のその言葉は、俺の心をより一層浮き立たせた。
俺は、それまでバザールに連れて行ってもらったことは一度たりとも無かった。
以前にバザールに連れて行ってもらった兄たちからバザールの賑やかさ、そして商品の豊富さや物珍しさは時々自慢げに聞かされていて、一体どんな場所なのだろうと想像ばかりを膨らませていた。
いつか俺も連れて行ってもらいたい、そう願い続けていた憧れの場所だった。
俺は父親に手を引かれて嬉々としつつ、小さく傾いた粗末な家を後にした。
数時間かけて辿り着き、初めて目にしたバザール、それは想像以上に賑やかで、そして、思い描いていた以上に彩り豊かなものだった。
目に映るもの全てが新鮮だった。
バザールの中の喧噪に満ちた雰囲気、それは年に一度の村の祭を思い出させた。
所狭しと並べられた数多の品々、それらの鮮やかな色彩は、俺の心をより一層浮き立たせた。
浮かれはしゃぐ俺に、父親は大きな林檎を買い与えてくれた。
俺と同じくらいの歳の男の子が番をしている露店で林檎を買い、俺に与えてくれたのだ。
林檎を目にするのはそれが初めてだった。
赤く艶やかなその色合いは、とても眩く目に映った。
その色合いは、口にすることが憚られるほどに艶やかで美しかった。
父親から促され、俺は恐る恐る林檎へと齧り付いた。
初めて口にする林檎の味わい、その瑞々しさと甘さには、最早、目も眩むような思いがした。
シャオッとした食感、それに次いで口中に流れ込んでくる瑞々しい果汁、そして、立ち上る甘い香り。
そのどれもが新鮮だった。
一口囓っては、その味わいも歯応えも香りも消え失せてしまうまで、口の中の果肉を幾度も幾度も噛み締めた。
嬉しそうに林檎を囓る俺の頭を、父親は優しく撫でてくれた。
父親のその手は大きく、そして、暖かだった。
俺は、幸せだった。
父親から大切に扱われること
父親の関心を独り占めできること
父親の温もりを感じられること
それらはこれまで感じたことの無い、しみじみとした幸せを俺の心にもたらしつつあった。
これから俺は幸せになれるんだ。
父親にも、そして母親にも大切にされるんだ。
そう思うと、嬉しさで心がはち切れそうだった。
この幸せが続いて欲しい、切にそう願っていた。
林檎が湛える鮮やかな朱、それは、今日のこの時の幸せの象徴であるように思われた。
俺は父親に手を引かれ、林檎を囓りながら、満ち足りた気持ちでバザールの中をあちらこちらと漫ろ歩いた。
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