幼き日の回想

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バザールの外れ、喧噪もやや静まったところで、繋いだ手を離した父親は俺に向かって言った。 別の店で買い物をしてくるから、少しここで待っているように、と。 俺は頷いた。 いい子だ、と父親は呟くように言い、そして、俺の頭を撫でてくれた。 父親は俯き加減で、その表情はよく見えなかった。 目を合せることもないままに父親は俺に背を向け、歩み行き、そして、バザールの喧噪の中へと姿を消していった。 バザールの人いきれの中に消えゆく父親の背中を眺めつつ、俺は林檎を囓った。 もしかしたら、父親は、また林檎を買って来てくれるのかもしれないと思った。 俺の心は弾むばかりだった。 けれど、そんな俺の期待とは裏腹に、父親はなかなか戻って来なかった。 待てど暮らせど父親は戻っては来なかった。 俺が父親に連れられてバザールに着いたのは昼過ぎだったのに、陽は西へと大きく傾き、そして、今や暮れ始めていた。 人気が失せつつあるバザールを、夕陽が橙に染め上げる。 つい先刻までは、様々な商品が満ち溢れ、取り取りの色に彩られていたバザールは、今や夕陽の橙、そして夕陽の為す黒々とした影とに満たされていた。 つい先程まで喧噪に満たされていたバザールの中を、ひんやりとした静寂が満たしつつあった。 俺が抱くように大切に持つ林檎、それは、まだ半分ほど残っていた。 けれども、俺はそれを囓る気持ちにはならなかった。 父親が戻ってきたら、残った半分の林檎は彼にあげよう、そして、食べて貰おう。 そう、思っていた。 そう思うことで、父親は必ず戻ってくると自分自身に言い聞かせていた。 夕陽が照り付ける中、俺は林檎を捧げ持ち、その朱に見入っていた。 その朱に心を寄せることで、昼間に感じた幸せな記憶を反芻(はんすう)できるような心持ちだった。 それは、突然の出来事だった。 左の横合いから伸びてきた真っ黒く汚れた手が、俺の捧げ持つ林檎を不意に奪い去ったのだ。 俺の手からもぎ取るようにして。 驚いた俺は左を振り向き、その真っ黒く汚れた手の主を見遣る。 その手の主、それは子どもだった。俺よりやや歳上に見える子どもだった。 見窄(みすぼ)らしくて破れ目だらけの汚れきった服を、ガリガリに痩せたその身に纏い、野犬のように荒んだ光をその目に宿らせた、垢に塗れた子どもだった。 「返して!」 俺は悲鳴とも泣き声ともつかぬ声をあげる。 必死になってその子どもに取り(すが)ろうとする。 けれども、その子どもは取り(すが)ろうとする俺の手を荒々しく振り払い、俺の叫びなど耳に入らぬかのように、その場から掛け去って行った。 俺から奪った林檎を貪るように囓りながら。 その子どもを追い掛けようという気力も萎え失せた俺は、その場にへたり込んでしまった。 惨めさや悲しさ、そして無力感とが俺の心を(ひた)し始める。 浮かび上がってきたその気持ちに触発されるかのように、林檎の存在故に俺が目を逸らし続けていた不安や恐怖が一挙に黒雲の如く俺の心を満たし始める。 父親は一体、どうしたのだ? もう間も無く夜ではないか? 戻ってくるのが余りにも遅すぎるのではないか? 父親に対する様々な疑念が心の面へと浮かび上がる。 けれども、そんな心の動きとは裏腹に、俺はその場から離れることは出来ずにいた。 そのうち父親がひょっこりと姿を現わして、俺を家へと連れて帰ってくれるに違いないと信じようとしていたから。 その場から離れてしまったら、父親は俺を見つけることが出来なくなってしまうと思ったから。 そして、俺には、その場を動く体力も、そして気力も残されてはいなかった。 いつしか俺の心の支えとなっていた林檎を奪い去られてしまったこと、それは俺の心を(くじ)けさせるには十分だった。俺は地面にへたり込んだまま、自分の両足を抱え込むようにして丸くなる。 ひたひたと押し寄せる寂しさや心細さ、そして深々たる恐怖から自分を守るかのように。 自分でも気付かぬうちに、俺はしゃくりあげていた。 両の目からは、いつしか涙が滲み出ていた。 俺は、もうどうすれば良いのか分からなかった。 切々と込み上げて来る寂しさや心細さ、それらをどう取り扱ったら良いのか分からなかった。 只、涙するしか無かった。
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