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俺は、あてどなくバザールの中を彷徨い歩いた。
バザールの中を満たす喧噪、それは、俺の耳から押し入り、頭の中身を揺さ振るように感じられた。
また、飢えと渇きとが、俺から注意深さを奪い去りつつあった。
バザールの狭い通路を誰かとすれ違う際、時折ぶつかってしまった。
けれども、それに気を配る余裕など俺には無かった。
こうしてバザールの中を歩いていれば、いつしか父親が隣に戻ってきてくれる、そのように思いつつあった。
これは悪い夢なんだ。こうして歩いていれば、きっと昨日に戻れる、そのように思いつつあった。
バザールに溢れる喧噪、バザールを華やがせる様々な色彩、バザールに満ちる熱、それらは俺を益々混乱させた。
不意に、俺の目に鮮やかな朱が飛び込んできた。
それは、林檎の朱だった。
俺は、心の中で叫び声を上げた。
嗚呼、林檎だ。
あれは、俺の林檎だ。
昨日、あの黒く汚れた子どもに奪われた、
俺の林檎だ。
引き寄せられるように、その朱い林檎の方へと俺は歩み寄る。
そこは昨日、父親が俺に林檎を買い与えてくれた露店だった。
昨日と同様、俺と同じくらいの歳の男の子が店番をしていた。
朦朧としつつある頭で、俺は思った。
俺がこの林檎を持っていれば、
父親は戻って来てくれるに違いない。
林檎を再び手にすれば、
幸せだった昨日に戻れるに違いない。
この手に朱い林檎を取り戻せば、
この悪い夢から目覚められるに違いない。
「棄てられた」だなんて、
そんな悪夢から目覚められるに違いない。
林檎さえ有れば。
そう、この朱い林檎さえ有れば。
不意に、俺は思い出した。これは俺の過去なんだ、と。俺はこれから、この露店から林檎を奪うのだ。
それを咎め、取り戻そうと追い掛けてくる店番の男の子を殴り倒すんだ。
殴り倒された男の子の悲鳴を聞き付けた近くの店の大人達が一斉に集まってくるんだ。
そして、俺は皆から罵られるんだ、この泥棒め!と。
その騒ぎを聞き付けて、先程、私を「棄てられた」と噂していた連中もやって来るんだ。
連中は、俺のことをバザールに棄てられた子どもだと喚くように言ったんだ。
哀れみ、蔑み、そして憎しみの視線が一斉に俺へと突き刺さるんだ。
居たたまれなくなった俺は、思わず叫び声を上げ、その場から走り出そうとしたんだ。
けれども、周りの大人達はそれを許さなかったのだ。
そして
大人達による『盗人』への制裁が始まったのだ。
一切の容赦の無い制裁が。
俺は、集まった大人達から叩きのめされた。
頭を小突かれ、頬を張り叩かれた。
胸へと、そして腹へと幾度となく拳がめり込んだ。
子どもの体が、容赦の無い大人の暴力に耐えられる訳も無かった。
遠慮の無い打擲を受け、俺が崩れ落ちるように倒れ伏してからも、容赦は一切無かった。
倒れ伏した俺は蹴り飛ばされ、踏みつけにされた。
脇腹を蹴り上げられ、頭を蹴り飛ばされた。
腕を、足を、背を、そして頭を荒々しく踏みつけにされた。
悲鳴を上げ、そして必死になって許しを請おうとも、誰一人として俺を庇う者は居なかった。
誰一人として俺の言葉を聞き入れてくれる者は居なかった。
怒声と罵声、そして嘲りの声が降り注ぐ中、俺は大人達から只管に打ち据えられ、只管に踏みにじられた。
俺が悲鳴すら上げられなくなった頃、ようやく制裁は終わった。
倒れ伏した俺に罵声を浴びせ、唾を吐きかけ、大人達はその場を去って行った。
打ちのめされた俺は地面に倒れ伏し、血の味がする砂塵を噛み締めていた。
体中が酷く痛んだ。
俺の目の前に、踏みにじられ無残に潰された砂塗れの林檎が落ちていた。
うめき声を上げながら何とか身を起こした俺は、潰された砂塗れの林檎を拾い上げる。
腫れ上がった瞼越しに見る林檎、その朱は砂に塗れて無残に色褪せていた。
それは、俺が昨日に味わった幸せの残酷な末路を示しているようだった。
俺は、潰れた砂塗れの林檎を口にした。
口の中で砂がジャリジャリと不快な音を立てた。
その味わいには、最早瑞々しさは無く、そして、甘い香りも失せ果てていた。
けれども、そんなことはどうでも良かった。
俺は只管に飢え、只管に渇いていた。
無心になって、その潰れた林檎を貪り、砂とともに臓腑へと流し込んだ。
そして、俺はふらりと立ち上がった。
足を引き摺り、よろめきながらその場を立ち去ろうとする俺に、冷たい蔑みの視線が突き刺さった。
俺の心は絶望に満ちていた。
誰一人として俺の心に手を差し伸べてくれぬ、俺を取り巻く世界への絶望に。
俺の心は憤怒に満ちていた。
俺に朱い林檎を取り戻させてくれなかった、俺を取り巻く世界への憤怒に。
俺は、俺と同じく親から棄てられてバザールに巣食う子ども達のグループに加わった。
日々を生き延びて行くために。
盗むこと、そして奪うことが俺の唯一の生きる術となった。
仲間とともにバザールの中を徘徊し、店番の隙を見つけては品々を掠め取っていった。
バザールだけでなく、街中でもひったくりやかっぱらいに手を染めた。
他者を思い遣る余裕など全く無かった。
盗むこと、奪うことに躊躇するような者は、飢えた挙句に命を落としていった。
大人達は誰一人として、そんな俺達に手を差し伸べてくれなかった。
俺は寂しさと哀しさに満ちた心を絶望と憤怒とに塗り潰すことで、盗むこと、奪うことを平然と為していた。
そうして何とか生き永らえてきた俺は、いつの間にか、ごく自然に強盗へと成り果てていた。
初めて人を殺めたのは十四歳くらいの頃だったと思う。
夜半、街中を行く商人を後ろから付け、そして、荷物を奪おうとした。
商人は思いのほか頑強に抵抗した。
俺は、抵抗する商人に叫ばれ、そして助けを呼ばれては困ると思った。
黙らせようと思い、携えていた短刀を鞘から抜いて逆手に持ち、そして、叩き付けるようにして商人の首筋を刺した。
短刀は意外と抵抗無く、商人の首筋へとめり込み、その肉を貫いた。
悲鳴を上げる暇も無く、商人はその場に崩れ落ちた。
罪の意識も、そして同情の念も俺の心には湧き上がらなかった。
意外と簡単だったな、というのが正直な思いだった。
今や何も映さなくなった商人の虚ろな瞳、それは、絶望に満ちた俺の瞳そのもののようにも思えた。
それからは、人を殺めることに抵抗が無くなった。
襲われて抗う者、泣き叫んで助けを求める者、そんな者達の命を容赦無く奪った。
けれども、街中で殺しをしては目立ってしまう。
それ故、俺は仲間と共に街道を行き交う隊商を襲うようになった。
そのうち仲間割れに辟易し、一匹狼となって旅人を狙うようになった。
一匹狼となってからも、命を奪うことに何の躊躇いも抱かなかった。
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