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分岐点
俺は、ハッと気が付いた。
そこは、バザールの中だった。
そう、俺は父親にバザールへと棄てられたのだった。
父親から棄てられた俺は、露店の前にて林檎を見詰めていた。
最早、焦点も定まらなくなりつつある瞳で。
飢え、そして渇きとに苛まれながら。
その林檎の朱は、俺の心を苛むようだった。
それは、昨日の幸せと今日の不幸、その二つを現わす色のように思えてしまった。
店番の少年と目が合った。
少年は、真っ直ぐに俺の目を見詰めていた。
その眼差しに、哀れみや好奇の色は無かった。
俺の瞳から自然と涙が零れ落ちた。
好奇も哀れみも纏わぬ視線、それだけでも、その時の俺にとっては救いだった。
眼前にて不意にポロポロと涙と零し始めた俺に対し、少年は戸惑い、そして、驚いたのだろう。
彼は露店の商品である林檎をひとつその手に取り、俺の方へと差し出して来た。
涙に暮れる俺を慰めるかのように。
驚いた俺は少年を見遣る。
少年はその視線に優しさを湛えて俺を見遣り、そして、無言で頷いた。
俺は林檎を受け取る。
そして、その林檎に無我夢中で齧り付いた。
林檎の瑞々しさ、甘さ、そしてその芳しさは、張り詰めていた俺の心を解きほぐしてくれるかのように思えた。
貪るように林檎を囓る俺の口からは、いつの間にか嗚咽の声が漏れ始めていた。
そして、囓りかけの林檎を持ったまま、何時しか号泣していた。
号泣する俺の頭に大きな手が置かれた。
その手は、その少年の父親のものだった。
少年の父親は俺に問い掛けた。
一体、どうしたんだ、と。
涙ながらに俺は答えた。
昨日、父親から、このバザールに置き去りにされ、棄てられてしまったことを。
少年の父親は息を呑んだ。
もの言いたげな少年の眼差しが、彼の父親へと注がれた。
少年の父親は果実商だった。
その日から、俺はその果実商の家で暮らすこととなった。
その家は、両親と少年、そしてその弟の四人家族だった。少年は俺より二歳歳上だった。
その家は、決して裕福などでは無かった。
けれども、両親は、二人の子ども達と何の分け隔ても無く、俺を育ててくれた。
「父親」が果物を仕入れ、街々へと行商する。
俺の「兄」となった少年、そして俺とがバザールの露店にて果物を売る。
そうやって「家族」の生計を支えた。
俺は懸命に「家族」の役に立とうとした。
他の店の賑やかな呼び子の調子を真似て、道行く人に林檎の美味しさを喧伝したりした。
よく見掛ける人の顔を覚え、愛想良く話し掛けては果物を買って貰おうとした。
浅はかでいじましい、そのような努力の甲斐もあってか、露店の売り上げは少しだが伸びていった。
また、バザールの中でも次第に顔見知りが増え、何かと大人達から可愛がられることも多くなってきた。
両親も、そして「兄」も、俺に優しく接してくれた。
「兄」とは毎朝のように、バザールの露店にて果物を売るために一緒に家を出た。
どちらがより多くの荷物を持てるか力比べのようになってしまい、父親が行商のために持って行くはずの果物まで持ち出してしまうことも時々あった。
そして、苦笑交じりの「父親」から「兄」共々雷を落とされ、「母親」が笑いながら「父親」を宥めるということが往々にして繰り返された。
そんな日々が堪らなく愛おしかった。
「兄」との絆
「父親」の優しさと厳しさ
「母親」の微笑み
それらが自分のものだと実感できる刹那、それは俺の心をじんわりと、そして揺るぎ無く暖めてくれた。
「弟」も、唐突に「家族」へと加わった俺によく懐いてくれた。
「母親」が家事で忙しい時などに「弟」の面倒を見、一緒に遊ぶことは楽しかった。
「家族」と関わって生きていくこと、支え合いながら生きていくこと、それは幸せだった。
「家族」との暖かな繋がりの中で、俺を苛んでいた心の渇きは、静やかに癒やされていった。
俺の心に渦巻いていた寂しさは、次第にその影を薄めていった。
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