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現実
目覚めた私の視界を占めていたのは、抜けるような青空、そして、暴力的なまでに光や熱をばら撒く灼熱の太陽だった。
私は砂漠に仰向けに倒れ、そして、天を仰ぎ見ていた。
一体何が起きたのか、まるで理解出来なかった。
つい先程、「兄」や「弟」、そして妻や息子達に看取られて息を引き取ったばかりだったというのに。
私の傍らには短刀が落ちていた。
ようやく思い出した。
そうだ、私はあの旅人に、この短刀を投げつけようとしていたのだった。
少年のような姿をした、空のように蒼い目をしたあの旅人に。
身を起こすと大きな岩が視野に入った。
私がつい先程まであの影に身を潜め、通り掛かる獲物を待ち受けていた、あの岩だ。
混乱していた記憶がようやく繋がってきた。
私は、通り掛かった子どもの背丈ほどの旅人を襲おうとしたのだ。
けれども、襲おうとして幾ら駆け寄ろうとも、その距離は一向に縮まらなかった。
短剣を投げ付けようとしても、それを足下に取り落とすばかりだった。
旅人から散々に罵られた挙句、彼が天から降り注がせた『光の剣』に、この身を貫かれたのだった。
それから私は、しばらくの間、気を失っていたのだろう。
そして、気を失っている最中、過去の夢でも見ていたのだろう。
けれども、夢はその途中から、実際の記憶とは異なるものとなっていた。
夢の中の私は、父親によって棄てられたバザールにて林檎を奪うことなく、果実商の家にて養われ、そして、絨毯商の店にて奉公人として働いていた。
実際の私は、露店から林檎を奪ったことを切掛として暗がりへと足を踏み入れ、その挙句、こうして盗賊に手を染めているのだが。
不思議なことに、私の心の渇きはすっかり消え失せていた。私の心に渦巻いていたどす黒い絶望、そして憤怒は跡形も無く消え失せていた。
「気分はどうだね?」
慈しみに満ちた声が私の耳朶を打つ。
私の正面に青年が立っていた。
背丈は私より幾分か高いくらいだろう。
癖のある金髪に透けるような白い肌、空の色を映すかの如き蒼い瞳。
端正なその顔には慈しみ、そして仄かな悲しみの色が浮かんでいた。
そして、その右手首には、金色の腕輪が輝いていた。
それは、幾つもの小さな金色の剣が連なった意匠の腕輪だった。
それらの特徴は、先程の旅人と同じだった。
その背丈、そして、その表情を除いて。
俺は、理解した。
この青年は、先程の子ども程の背丈の旅人と同じ人物なのだ、と。
私は、何時しか彼の前に跪いていた。
青年は慈しみ、そして悲しみを湛えた目で私を見遣る。
声が響く。
「つい先程、君がその身に受けた『光の剣』。
それは、その人の記憶を過去に遡らせ、
辛かった記憶を幸せなものへと
作り替えるものなんだ。
辛い記憶に縛られた人を、その縛めから解き放ち、
幸せに生きることが
出来るようにするものなんだ。」
そう、その通りだ。
この青年の言う通りだ。
私は、気を失っている間に、これまでの人生をやり直したのだ。
私がバザールにて林檎を奪おうとしたあの日から。
人生をやり直した結果、私の心は自由になっていた。
バザールに棄てられ、そして林檎を奪おうとしたあの日から抱き続けてきた、私を取り巻く世界に対する、滾るような絶望と憤怒から解き放たれていた。
その代りに、「家族」から受け取った暖かな優しさが私の心を満たしていた。
けれども。
青年の端正なその顔を、哀切に満ちた表情が覆い尽くす。
声が響く。
「けれども、君は・・・。」
その声色は悲しみに満ちているように思われた。
私の心には、これまでの盗賊稼業で己が為した、様々な所業が蘇りつつあった。
盗賊稼業の中で、私が命を奪った幾多の人々の今際の声が、そして今際の表情が蘇りつつあった。
私が彼らに為した非道極まりない数々の仕打ちが、私か彼らに対して吐いた冷酷極まりない数々の言葉が蘇りつつあった。
私の胸に痛切な罪の意識が込み上げる。
私がこれまでに命を奪ってしまった幾多の人たち。
その人たちそれぞれに、日々の平穏な暮らしがあっただろうに。
その人たちそれぞれに、家族や友人達との幸せな繋がりがあっただろうに。
その人たちそれぞれに、幸せな生があったろうに。
それを、私は、私は。
何時しか私は絶叫していた。
私の心の中から込み上げる罪の記憶と罪の意識、それらが凍てついた闇色の刃となり、体の中から私を次々と刺し貫いていく、そのような思いだった。
私は理解した。
この方が、『光の剣』を降り注がせる前、私に告げた言葉の意味を。
『多分だけどな、
お前、生きていること後悔するぞ。
今のうちに死んじまったほうが
まだマシだと思うけどな。』
そう、私は、死ねば良かったのだ。
あの時、この方が言った通り、死ねば良かったのだ。
私の足下に転がるこの短刀で、自分の喉を突くなりして死ねば良かったのだ。
そうすれば、心の深奥から噴き上がるような罪の記憶や罪の意識に身を灼かれるような思いをせずに済んだのだ。
もう、死のう。
そう思った。
跪いたまま、私は短刀を拾い上げる。
これまで私が幾多の旅人たちの命を奪ってきた、私の罪の記憶そのもののような短刀を。
短刀の切っ先を私の喉元に当てる。
目を瞑る。
これでもう、楽になれる。
これでもう、罪を思い出さずに済む。
私など、始めからこの世に存在しなければ良かったのだ。
短剣を握る両の手に力を込める。
けれども、小刻みに震える短刀のその切っ先が、私の喉元を刺し貫くことは無かった。
短刀を握る私の両の手は、まるで何か別の意思を持っているかのように、その動きを止めていた。
短刀を握る私の両の手は、自身の心の戦慄きを映すように小刻みに震えるばかりだった。
私の心に根を下ろす罪の意識、そして、罪の記憶。
それらが私が生から逃げだそうとするのを阻んでいる、そのような心持ちだった。
哀れむような声が響く。
「辛いな、可哀想に。」
項垂れたまま、私は口を開いた。
「私は…私は、一体どうしたらいいのでしょう?」
声が響いた。
「今の君ならば分かっているはずだ、
君が何を為すべきか、を。
分かっているからこそ、
君のその手は、君の生を終わらせないのだ。」
跪き、項垂れた私の肩に手が置かれる。
そして、私の体は抱きしめられた。
耳元で声が響く。
「その日には君を迎えに行く。
だから。」
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