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バザールに程近い安食堂、その中は猥雑な香りと賑わいとで溢れ返っていた。
香辛料の薫りや肉の焼ける匂いなどに満ちた店内では、露天商や行商人と思しき面々が慌ただしげに食事を掻き込みながら、喧々と会話を交わしている。
かと思えば隅のほうの席では、貧相な身なりの老人が雑穀入りのパンをゆっくりと噛み締めている。
そんな店の片隅にて、私は独り、いつものように豆と鶏肉とのスープを啜っている。
鶏肉の筋ばった歯応えや煮込まれた豆のホロホロした食感には、何とも郷愁をそそられる思いだ。
『この街有数の大商人であるご主人様が、
こんな安食堂で食事を召し上がられるだなんて
不釣り合いですし、それに物騒ですよ。』
と、私に常々苦言を呈していた番頭の、困り果てたような顔が脳裏に浮かぶ。
思わず、唇の端に微笑みが浮かび上がる。
食事を終えた私は、顔なじみである食堂の店主に「ご馳走さん、旨かったよ。」と声を掛け、カウンターの上に三枚の金貨を置いて食堂を出た。
銅貨三枚も払えば事足りる食事だが、今日はそれでいい。
大通りを歩み去ろうとする私の背中に、食堂から飛び出してきた店主が何やら大声で叫び掛けているが、私は挙げた右手を軽く振り、そのまま歩みを進める。
熱を孕んだ砂塵混じりの微風が、街の大通りを吹き抜ける。
バザールの喧噪が耳に入る。
予定の時間には、まだ少し間があるようだ。
これでバザールも見納めにしようと思い立った私は、大通りからバザールの中へと足を踏み入れる。
食料、香辛料、服、雑貨、日用品、装身具、その他諸々が所狭しと並べられたバザールの中は、熱気と喧噪に満ち溢れていた。
四方から押し寄せるかのような賑わいを浴びながら、私は迷路のようなバザールの中を漫ろ歩く。
最早馴染みの光景だが、今日は何とも感慨深く思えてしまう。
とある小さな露店が目に入る。
痩せ細った、そして、着ている服も見窄らしい、寂しげな面持ちの少年が一人で店番をしている。
売っているのは林檎にプラム、そしてイチジクといった果物だ。
切なげな少年の面差し、そして林檎の朱とが私の胸をチクリと刺す。
私は露店に歩み寄り、そして、少年に問い掛ける。
「店番は君だけかい?親御さんはいないのかね?」
少年は答える。
「親は母ちゃんだけだ。
今日は弟が熱を出しちまって
母ちゃんは看病しているから、
俺が店番をしてる。」
頷いた私は、財布から金貨を十枚ほど取り出して少年へと差し出す。
「感心なお兄さんだ。
この店の果物を全部買い取らせて貰いたいが、
これで足りるかね?」
少年は目を丸くし、呆然とした表情をその顔に浮かべて私を見詰める。
そして、無言で何度も頷く。
恐らく、金貨などとは縁の無い暮しぶりなのだろう。
切々とした痛ましさが私の心を苛む。
少年は、押し頂くようにして私から金貨を受け取る。
私は少年に語り掛ける。
「お釣りは要らないよ。
肉でも卵でも栄養のあるものを買って、
弟さんに食べさせてあげなさい、
感心なお兄ちゃん。
果物は、代官所の隣の孤児院に
全部届けておくれ。」
泣き出さんばかりな少年の、雨霰のような感謝の言葉を背に受けながら、私は露店を後にし、そして、バザールから歩み出る。
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