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「どう思う?」
『どう思うって……』
「『一週間ほど休む』って書いてあって、それなのに、もう二週間休みっぱなしって、どう思う?」
木原莞蔵(きはらかんぞう)は彼にとって唯一の元カノであり、また、どうでもいい電話を掛けられる唯一の相手でもある市来眉子(いちきまゆこ)に問うた。
そう、二週間前のことだ。近頃では週五ペースで通っていた喫茶店を莞蔵が訪れると、店のドアに貼り紙が出ていた。
【一週間ほど休業させて戴きます。】
「一週間」。それは、ほぼ毎日通っている身からすれば永久の時とも思えた。だが、莞蔵は気丈に耐えた。時にインスタントコーヒーを仏頂面で自宅で啜り、時にファーストフード店のコーヒーを微妙な表情で飲みながら、耐えたのだ。
そうやって一週間耐えた後に莞蔵が例の喫茶店に行ってみれば、ドアには一週間前に貼られたものがそのまま替えられた様子もなく存在していた。そして、そのまた一週間経ってもまだ状況は全く変わっていない。
「何日から何日までって、そういう書き方しないとかもずるくない?あれじゃそもそも、いつからいつまで休むつもりだったかもわからないし」
『随分とそのお店、気に入ってたんだ』
眉子に対して莞蔵は、常々彼女がこの世で一番自分と馬が合う友人だと思っている。しかし、彼女の話の途中でたびたび論点のずれた発言をする癖は正直苦手とするところだ。
「気に入ってたとかじゃ…」
『そんな風に毎日通って再開を今か今かと待ってるなんて、本当にすっかり常連さんなんだねぇ。なんか、意外』
「何が?」
『馴染みの店持つとかって。ずっと部屋に籠ってても平気なタイプっていうか、むしろ、そうしてる方が好きな人間じゃなかったっけ?』
「それは、」
反論の為の適当な言い訳を探したが見つからず、莞蔵の言葉は途切れた。
『そりゃ、誰だって少しは変わるか。短い間に色々状況が変わったんだから』
スマートフォンのスピーカーから聞こえた眉子の言葉を、莞蔵は無言で肯定した。
世界中を騒がせた感染症の流行によって、莞蔵の生活サイクルはそれ以前とはすっかり変わった。勤め先のシステム開発会社が社員の就労を全面的にリモートワークに切り替えたお陰で、毎週五日…時には週七日の習慣であり義務であった職場への通勤がなくなったのだ。
この働き方の変化を、夜型で出不精の莞蔵は基本的には歓迎した。しかし、狭いアパートの一室で一日中ひとり、外出はせいぜい近所のスーパーかコンビニで買い物をする程度という生活が長く続き、その間、実際に会って話す相手といえばマニュアル対応の店員のみという日々には、孤独に強いと自負していた莞蔵も少々参った。
そうして、外出自粛要請が解けたタイミングで莞蔵は今までにない行動に出た。といっても、何の事もない細やかな行動だ。今まで一度も入ったことのない近所の喫茶店に足を踏み入れたという、それだけの事だった。
その喫茶店に関しては、莞蔵は今のアパートに越してきた当初から知ってはいた。駅から続く地元感満載の商店街の一番端、客を呼び込むにはあまり良い立地とは言えない場所に、その店はあった。白い外壁に赤いタイル、ファンシーな趣の出窓という、隣近所の建物と比べ四半世紀は取り残されている印象の外観は、平日の通勤や休日の外出で店の横を通りがかるたび、莞蔵の目を引いた。
だからといって、莞蔵がその店に入ってみる事はなかった。その喫茶店の窓から覗く店内の暗さが一見客を拒否しているかのように見え、莞蔵にはなんとなく敷居が高いように感じられていたからだ。
莞蔵が会社からリモートワークを言い渡されて、しばらくが経った頃。食料品を買いに外出した莞蔵はその道すがらに、喫茶店のドアに紙が一枚貼られているのに気が付いた。その紙には太いマーカーの文字でこう書かれていた。
【閉店致しました。長い間、ありがとうございました。】
自分が一度も利用したことのない店が営業を辞めたところで、莞蔵には大した感慨も湧かなかった。ただ、「ご時世だなぁ」と思うのみだった。
その後、廃業したその店は取り壊されるでも新しい店子が入るでもなく、ただ放置された。その間、莞蔵もいち通りすがりとして店の出窓の埃が層を重ね白くなっていくのをうっすら観察しているだけだった。
人々がマスクを恐る恐る外し世間がまた以前の日常に戻ろうと動き始めた、そんな中で、その店の貼り紙は剥がされた。同時に窓もきれいに掃除され、再びクリアに通行人たちを映しだした。
懐かしさを感じるその店の営業再開を、莞蔵もひそかに喜んだ。しかし、そのことは莞蔵にとって他のニュース…海外渡航の制限緩和や二年の間中止されていたイベント開催などと同じく、感染症の終息を感じさせはするが自分には直接深くは関係しない出来事の一つでしかなかった。
仕事にのめり込み過ぎてうっかり徹夜をしてしまった末の午前中、莞蔵はコンビニに取り敢えずの食事とスポーツドリンクを買いに行った。眩しい陽の下を歩きながら、影を殺すかのような光が降り注ぐコンビニ店内を思い、派手なユニフォームを着た店員を思った。急に行きたくない、見たくないなと思った。
何となく、コンビニと同じ通りで且つ数十メートル手前にある薄暗い喫茶店に、ふらりと足が向いた。入り口前の足元の看板には「喫茶 楓」とあった。長く見てきていたにも拘らず、莞蔵は初めてその店の名前を確と認識した。
莞蔵は古くはあるがその分重厚感もある木製のドアを開け、外と比べ明るさが格段に落ちる、ほぼ暗闇の店の中に入った。
「いらっしゃいませ」
店員の白いシャツがドアから入り込んだ光をぼんやり反射した。彼の声は、そう離れてもいない場所の莞蔵に聞こえるか聞こえないかの音量だった。
その日以降、莞蔵はその店をたびたび訪れるようになった。そう、当初は「たびたび」。せいぜい、週に一、二度。それがいつの間にか、ほぼ毎日通う常連客となってしまった。
そうなってしまった原因は、リモートワークという労働環境の影響が大きかった。外出自粛期間が始まった当初、自宅での仕事に慣れていなかった莞蔵は、長時間の作業による集中力の低下を自覚した時でも、むきになってパソコンの前に張り付きがちだった。それが短くもない時を経て、以前のように外出が気兼ねなくできるようになった頃には、莞蔵も一人仕事のコツを大分掴んでいた。
大事なのは、適切な間隔で適度な休憩を入れること。自分の集中力の限界を知った莞蔵にとって、「喫茶 楓」は格好の息抜きの場となった。ある時には昼前に、またある時には昼下がりに、仕事の締め切りが近い時期などには一日に二度、莞蔵はその店でコーヒーや軽食を摂るようになった。
「喫茶 楓」は通うようになる以前の莞蔵が想像していた通り、常連ばかりがやってくる店だった。しかし、それらの客同士に特別な連帯感なく、新顔の莞蔵も変に構われたり煙たがられたりすることはなかった。
そういった他人に干渉しない店の空気感は、まだ二十代半ばと思われる若い店主のキャラクターによって作られているのだろう。莞蔵は店に足しげく通ううち、そう思うようになった。
今の店主が二年前に店を畳んだ先代の経営者の親戚である事は、店主と常連客との会話で莞蔵は聞き知っていた。その店主は人間嫌いのレッテルを貼られがちな莞蔵より余程人と関わるのが苦手なのか、客が聞き取るのに困難を感じるほど小さい声でオーダーをとり、注文のメニューを運んだ後は運ばれた方が嫌われているのではと思うほどそそくさとカウンターの奥に逃げるように戻った。
世の常識で考えれば、そんな接客態度では客が離れていきそうなものだが、一人静かに、しかし一人ではない空間で時間を過ごしたいという客にとっては店主の極端に控えめな態度がかえって好ましいのか、狭い店内にはいつも客の三、四人の姿はあるのだった。
莞蔵はその店を知るまで、商売が関わる場所に自宅に居る以上の居心地の良さを感じたことがなかった。それが、最近では成程こういう感覚であったかと、経験して初めてわかる事もあるものだと感じ、そう感じる自分を受け入れ、そうして、その喫茶店を生活サイクルに組み入れた。
いまや莞蔵にとって、「喫茶 楓」が仕事的にもプライベート的にも必須の場所であることは間違いない。だというのに、勝手に休業され締め出しを喰らおうとは。それも、もう二週間も!
「喫茶 楓」という居場所を失った莞蔵は仕事の合間の休憩を、自宅の台所で過ごしたり、近所のコンビニやファミレスで過ごしてみたりした。しかし、残念ながら気分は上手く切り替わってはくれなかった。それならいっそ休憩なしで仕事を続けた方がましだという考えに変わり、莞蔵は集中力を欠いたまま無理にデスクワークを続ける日が多くなった。
真夜中や明け方までの作業。一日に複数回の短い仮眠。不規則な時間に摂る食事。そんなことを繰り返している間に、莞蔵の自律神経は徐々に乱れていった。
ある日、莞蔵は二週間に一度の定例出社の為に、慢性的な疲れを抱えた身体を引きずり駅に向かった。家から駅までの道の途中、いつもと同じく例の喫茶店の様子を窺うと、ドアにあるはずの貼り紙が消え、代わりに「営業中」のプレートが掛かっていた。
莞蔵は職場に行くという用事も一瞬で忘れ、その扉に一直線に向かった。約ひと月ぶりに開けた扉の先には白いシャツを着て黒いエプロンを腰に巻いた店主が、ひと月前と同じくカウンターの奥に立っていた。
「いらっしゃいませ」
陰気な雰囲気さえある、お馴染みのおとなしい店主の挨拶。ようやく店内の暗さに目が慣れたところで浮かび上がってきた気弱な笑顔も、ひと月前と同じだった。
「どういうつもりですか?」
きつい口調の言葉が莞蔵の口から自然と零れた。言っている間には、莞蔵は自分が何に対して怒っているのか自分でも分からなかった。言い終えてから、そうだ、自分は店主のいつも通りの態度に、最近まで店を放っておいたなんて思えない惚けた態度に腹を立てたのだと気が付いた。
「え…?」
「一週間休むとか言っといて、実際には一ヶ月も店閉めるとか」
店主は莞蔵がこれまで見たことがない、驚いた表情だった。当然だ。いつもは注文しか口にしない男、あとはせいぜい軽く会釈しかしない男が、今日に限って突然文句を言い出したのだから。
「無責任じゃないですか?休むなら休むで、ちゃんといつまでとかはっきりさせて、それを守るのがこういう商売やってる人の義務でしょ。毎日来る客がいるってことは分かってんだから。休みをとるのは結構だけど、自営だからって気紛れで遊び回ってもいいってもんでもないでしょ?」
「ちょっと、あんた…」
「すみません、でした」
カウンター席に座っていた年配の男…以前から若い店主に馴れ馴れしい態度のこの人物を、莞蔵は好かなかった…の窘めよりも大きな声で店主が謝罪した。裏返った声だった。
「休むことになったのは、急なことが起きたからで、その、」
「新山(にいやま)ちゃん、いいよ」
「いえ、ちゃんとご説明しないと……私の、実家の母が亡くなったんです」
「一週間で戻ろうとは思っていたんですけど」
「突然のことだったので」
「家族が動揺してしまって」
「店に戻らずに、しばらく側にいることにしました」
「でも仰る通り、ちゃんと休む期間はっきり決めてお伝えするべきでした」
「ご迷惑をお掛けして、申し訳ございませんでした」
莞蔵が気が付くと、駅の改札を出た直後だった。そのまま歩みを止めずにホームへと向かう間、深々と頭を下げた店主の旋毛ばかりが思い出された。それからの記憶はボンヤリとしていた。自分があまりに恥ずかし過ぎて、何も考えられなくなったからだ。
たかが、自分が落ち着ける場所が少しの間使えなくなったくらいのことでイライラして。その苛立ちを、肉親を亡くしたばかりの人に対して、責任とか義務とか偉そうな言葉を使ってぶつけて。そうだ、自分はあの店にいてはいけない人間だと咄嗟に痛感して、無言で店のドアから出て行ってしまったのだ。出て行く前に謝ればよかった。謝るべきだった。
やって来た電車に乗り込み席に座った莞蔵は、瞼を下した。何もかも忘れ電車の揺れにまかせて眠ってしまいたかったが、そう上手くはいかず、今度は瞼の裏を歪んだ笑みを浮かべる店主の顔だけが映った。
もう二度とあの店には行けない。体中に恥と後悔とが順繰りに巡り混乱しながらも、それだけはわかった。
「マスターって、女性じゃなかったんだ」
眉子のひそひそ声に対して、莞蔵は一旦顰め面だけを返した。眉子に対して莞蔵は、常々彼女がこの世で一番自分と馬が合う友人だと思っている。しかし、彼女の一人勝手に早合点する傾向については辟易してしまう。すぐに色恋に結びつけようというところに関しては、尚更だ。
「性別の話なんかしたことないけど?」
「でも、話し聞いてると可愛い感じの人みたいだったし、莞蔵が凄いご執心だから、てっきり」
「あのさぁ、俺が気に入っているのは店であって…」
「あ、クリームソーダ私です」
店主の「彼」が席に近付いてきたことに先に気が付いたのは、眉子の方だった。
八月、平日の昼下がり。たまたま莞蔵の家の近くにある営業先を訪れた眉子が、ちょっと会わないかと莞蔵を誘ってきた。彼女の目的は、噂の喫茶店とそこの店主を自らの目で確認する事であった。
「最近、弱冷房の店が多いから、これくらい冷やしくれてると外回りの身としては助かるわぁ。私もここの常連になっちゃおうかな」
「それはダメ。知り合いがいるとか、やめて」
眉子がこれ見よがしに不機嫌な顔を作り二人の会話が途切れたタイミングで、店主は莞蔵にコーヒーを差し出した。
「お待たせいたしました。どうぞごゆっくり」
二度と行けない。そう強く思っていたというのに、たった一か月後には、莞蔵は「喫茶 楓」に引き寄せられ戻ってきてしまった。
一ヶ月も経てば、むこうもあの出来事を忘れているだろう。忘れていなかったとしても、もう気にはしていないだろう。莞蔵の表面上の言い訳としてはそんなものだったが、本当は、親しい人を亡くし落ち込んでいる時期に最悪の説教をしてきた客への悪印象が消えることなどないだろうと、加害者である莞蔵だって普通にわかっていた。
だから、店に戻って以降いつかは謝ろう、謝ろうとはずっと思い続けていたが、いつも謝罪の機会を掴めず思いを実現できないまま、莞蔵はそのままずるずると店を利用し続けていた。
「あ、もう次んとこ行かなきゃ」
さんざん人に仕事の愚痴を聞かせた後、眉子は仕事用のトートバッグを肩にかけ席を立った。
「莞蔵は?これから?」
「俺も家戻るわ。仕事の真っ最中に誰かさんに呼び出されたお陰で、作業まだ全然途中だし」
「そりゃ悪かったわね」
先に眉子がクリームソーダの、後に莞蔵がコーヒーの会計を済ました。店主は初対面の眉子とほぼ毎日会っている莞蔵と、どちらにも全く同じ態度でレジを打った。
彼は莞蔵に一度も「いつものですか?」や「いつもありがとうございます」といった、「いつも」を使ったことがない。他の常連たちにも同様なのかと思いきや、常連扱いしてほしがる客たちには「いつも」を頻繁に使っている。それぞれに居心地の良さを感じてもらえるよう、客によって使う言葉を変えているらしかった。
小さな声、気弱な態度。そんなところから、この店の店主をコミュニケーションが苦手な内気な若者だと決めつけていたが、実際には遥かに年上の客たちより一枚も二枚もうわ手な接客のプロなのだと、最近になってようやく単純過ぎる性格の莞蔵も気付いてきた。
できた相手に責任を丸投げするような考え方ではあるが、自分がずっと彼に謝れないでいるのも、莞蔵が気付かないうちに彼に弱々しい笑顔で上手くさり気なくかわされているせいかもしれない。もしかしたら、店主がそうやって莞蔵に謝らせてくれないのは、いつまでも莞蔵を許したくないからではないかと、考えなくもない。そんな風に考えるのは、いくらなんでも人を疑い過ぎだろうか。
釣銭を受け取った莞蔵は、真正面から店主の顔を見た。「以前のこと、すみませんでした」。そんな言葉を喉まで引き上げたが、すぐ横でスマートフォンを弄る友人の存在を思い出し、莞蔵は言葉を呑み込み腹に戻した。
結局、この日も「ご馳走さま」とだけ言い残し、莞蔵は店を出た。
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