碧人:不可抗力

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碧人:不可抗力

…狭い。 しかも左腕がさっきからジンジンと痺れている。 朝の眩しい日差しに瞼を上げると、腕の中に凛がいた。 「……。ゆめ?」 でも手に感触はあるし凛の香りも分かる。 少しずつ記憶を辿るが、最後にチョコパイを全部取られたところまでしか思い出せない。 「凛、凛ってば」 「んん…」 「なんで一緒に寝てんの?」 凛は眠そうにうにゃうにゃした。 「だっ…て、お前が、あんなこと…する、から…」 再びこてんと眠りに落ちる。 逆に俺は一気に目が覚めた。 「ちょっ、起きろって!お、俺、昨日またなんかした!?おいって!!」 嘘だろ。 俺だけ覚えていないとか大損…じゃなくて、まずいだろ。 何した、何した、何した!? 「…」 いやちょっと待て。 落ち着いて考えよう。 仮に前と同じだったか、それ以上だったとしよう。 となれば流石に凛も平和にそのまま俺の隣で寝ない気がする。 「…凛?」 揺すってみても全く起きる気配はない。 行き場のない手でサラサラの黒髪を撫でてやると、無意識に動いた凛の指が俺の小指を握り返した。 「…」 これは、いい加減凛も悪くないか? 一回手出されてるのに俺に対して無防備すぎないか? それとも相手が誰でもこんな感じなのだろうか。 「凛、起きろって」 「…」 「起きないと世の恐さを思い知ることになるぞ」 「…」 「なぁ、頼むよ。一人でたたかわせないで…」 何も出来ないのに離れがたいこの状況は朝の体に中々堪える。 ここは欲求を断ち切って冷静になるべきだ。 俺は凛を置いてそっとベッドから抜け出し、水を貰うために一階へ降りた。 「あら、おはよう」 「おはようございます芳恵(よしえ)さん。水一杯もらっていいすか?」 「はいはい」 凛の母、芳恵さんは機嫌良く冷えた天然水を入れてくれた。 「昨日かなり遅くまで付き合わされたんじゃない?」 「それが途中から全く記憶がなくて…」 「ふふ。凛も嬉しそうだったからねぇ。あ、朝ご飯用意出来てるの。凛がまだ起きてこないなら先に食べちゃって」 「うわ、至れり尽くせりだ。そんなに甘えちゃっていいのかな」 「いいのよー」 瑞々しいサラダとつるりとしたゆで卵がきちんとお皿に盛り付けられていく。 紙のコースターの上には氷が踊るアイスミルクティー。 トーストの芳ばしい匂いが届くと、喫茶店顔負けのモーニングが目の前に完成した。 俺は席に座ると有り難く手を合わせた。 「美味しい。芳恵さんの手料理ってほんと美味しい」 「ふふぅ、毎日食べに来てくれてもいいのに」 「それ最高」 とても居心地の良い和やかな空間を堪能していると、芳恵さんはにこにこと頬杖をつきながら唐突に言った。 「で?もう凛は落とせたの?」 飲んでいたミルクティが音を立てて喉に引っかかる。 「げほっ!!げほっ…!!う…、え!?」 「なぁんだ、その様子じゃまだかぁ。ま、あの子もまだまだお子様だしね。秋とはいえども食べごろには程遠いか」 「ちょっ、よ、よ、よ、芳恵さん!?」 「なに慌ててんのよ。昔から凛にだけあーんなに甘い顔してるくせに。ねぇ、頑張ってよ?私碧人くんが息子になるの、結構本気で楽しみにしてるんだけど」 芳恵さんはウキウキしているが、不意打ちで猛烈なパンチを喰らった俺はそれどころではない。 居た堪れなくなると、耳まで真っ赤になり頭を抱え込んだ。 「芳恵さん。それ、凛には…」 「もちろん何も言わないわよ」 「もしかして昨日泊まってけって言ったのも…」 「もちろん、応援してるからよ。ねぇ、付き合い始めたらちゃんと教えてね」 これは…駄目だ。 衝撃が大きすぎて立ち直れない。 ていうか俺、かなり気をつけてたつもりなのに凛に対してそんな顔してんの? 「ご、ご馳走様でした!!」 残りのミルクティを一気に飲み干すと慌てて立ち上がる。 ひらひらと手を振る芳恵さんの顔など見られるわけもなく、火照る頬を手の甲で冷やしながら階段を登った。 凛の部屋の扉を開くと、窓からふわりと爽やかな風が流れこんだ。 「凛…?」 凛はまだゆらゆら揺れるレースの下で眠ったままだ。 後ろ手にそっと扉を閉め、二人だけの空間に溜め込んだ息を吐く。 俺は凛のそばで、へたるように床に座り込んだ。 「はぁ…、まじ焦った」 ぐったり頭を布団に押し付けると、僅かに触れた凛の手が動いた。 「ん、あおと…?」 「はよ」 「んー…」 そこはかとなく眠そうな声。 凛は手を伸ばし、スマホで時間を確認してからまた布団に丸まった。 「あと三十分。九時まで寝てい…?」 「ん。別に無理して起きなくていいよ」 俺も床に放りっぱなしだったスマホを手に取り適当にネットを開く。 無に徹しニュースを漁り心を落ち着けていると、不意に後ろ髪をちょいと引かれた。 「あおと…」 「何?」 「昨日…」 どきりとしてスワイプしていた指先が止まる。 凛は手を引っ込めるとちょっとだけ目を開いた。 「…なんでもない」 また目を閉じ布団の中に潜り込む。 それ以上のアクションはなかったが、完全に凍りついた俺の体には冷たい汗が浮かんでいた。 今の関係を壊すほどの勇気はまだない。 それなのに、確かに何かが少しずつ動いている。 身から出た錆? 自分で撒いた種? でもこれってちょっと不可抗力とも言えないか? そよそよと流れる秋の風は素知らぬ顔をして頬を撫でていく。 何が実るのか分からないまま、俺はしばらく真っ暗になったスマホの画面を見ていた。           ー「秋だけど君は」ー
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