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凛:夏は、嫌いだ
夏は、嫌いだ。
去年は大好きだったばあちゃんが分厚い入道雲の向こうへ旅立った。
その前の年は俺の喘息が悪化して入院。
それから、仲良しだった友だちが引っ越したのも蝉がうるさい日だった気がする。
何か大きな変化が起きるのは大概、夏。
だから……
「あっちー」
襟足から滴る汗が白いシャツに溶け込み消えていく。
夏休みも中盤だというのに、昼時まで補習を余儀なくされていた俺は一人廊下を歩いていた。
いつもなら校舎中に反響する管楽器や野球部の掛け声も、どうやら猛暑が奪ったらしい。
代わりに夏を主張するアブラゼミだけが窓ガラスの向こうで歌い狂っていた。
「あれ?凛?」
買ったばかりのパックジュースにストローをさしていると、体育館横から声がかかった。
Tシャツとジャージ姿で手を振りながら駆けてくるのは、俺より頭ひとつは背の高い幼馴染だ。
「あれ、碧人だ」
「なんで登校してんの?」
「なんでって、補習受けてたから。そっちこそこんな暑い日まで部活だったのか?」
「午前中だけな。K校と交流試合やってた」
「うわぁ、バスケ部は元気だなぁ」
「暑くて死にそうだったけど、凛見たらなんか元気になった」
俺を映した薄茶色の瞳が楽しげに細められる。
適度に伸びた天然茶髪を揺らしながら人懐っこく笑いかけてくる姿は、昔ばあちゃんが飼っていたゴールデンレトリバーをほんのり連想させた。
「で、勿論勝ったんだろ?」
「ん。三戦ともストレート勝ち。まぁ、俺がいるからねぇ」
「はいはい。二年生エース木崎 碧人は今日も好調か。来年は間違いなくキャプテンだな」
何の気なしに返したが、碧人は少し気まずそうに身じろぎをした。
「あ、今のは変な含みじゃなくて、単純に碧人はすごいなって意味だから」
出来るだけ明るく言ったが、二人の間に僅かにぎこちない空気が流れる。
これには理由があった。
小学生の頃、途中転入してきた碧人をバスケクラブに誘ったのは俺だ。
毎日遊びながら練習しているうちに、碧人はぐんぐん上手くなった。
二人で皆の前を突っ走った五年の時が一番楽しかったかもしれない。
でも、元々喘息持ちの俺は長時間試合に出ることは厳しかった。
そして中学に上がる頃には体質を考慮し、バスケ自体を諦めることになった。
一方で背も技術も見事に伸び、今や三年を押し退けレギュラーを勝ち取ったのが碧人だ。
悔しくないと言えば嘘になるけど、俺が教えたバスケを碧人が引き継いでいると思えば、別にそれはそれでよかった。
「凛…」
「ん?」
どこか不安そうな声に笑みで返すと、碧人も探るような眼差しをやめた。
「あのさ、補習終わったんならこの後時間ある?」
「今から?まぁ、別に用事は何もないけど」
パッと音が聞こえそうなくらい碧人の顔が明るく変わる。
こういうところがやっぱり憎めない。
「じゃあさ、後で久々に…」
「長谷川ぁー!!見つけたぞおぉ!!」
渡り廊下の先から割れ鐘のような声が飛んでくる。
怒涛の勢いで迫って来たのはクラス切っての重量級、倉田だ。
名指しされて唖然としていた俺は、倉田にがっちりとホールドされた。
「うわっ!?ちょっ…!!」
「みーこが補習組でモス行こうっつってただろうが!!長谷川も来るだろ!?」
「お、重い!暑い!とりあえずどけ!!」
「今日こそは行くと言うまで離さんぞ!!あいつらお前を連れて来いってうるせーのなんの!!」
どれだけもがいても柔道部倉田を引き離すことは出来ない。
今にも引きずって行かれそうだったが、俺の手を碧人が掴んだ。
「悪い、倉田。凛は俺の先約」
「何ぃ?」
すっかり俺しか見ていなかった倉田は、碧人と目が合うと「あっ!!」と声を上げた。
「木崎、お前…!!そうか、夏休みなのにやたら体育館に女子が出入りしてると思ったら今日試合だったんだな!?この女泣かせめ!!」
碧人に似合わぬ言葉に思わず目を瞬く。
「女泣かせ?」
「お前知らないのかよっ。木崎が試合すると決まって毎回告白ラッシュとかいうクソイベントが発生してだなぁ…!!」
突然倉田の声が遠くなったのは、俺の両耳が碧人に塞がれたからだ。
「あ、碧人?」
「聞かなくていい。凛、行くぞ」
「あ!!おい木崎!!長谷川!!」
碧人は俺の腕を掴み、倉田の声を振り切るように早足で歩き出した。
「ちょ…碧人待てって。ジュースがこぼれる!」
ストローの先からは今にもオレンジ色の液体が飛び出しそうだ。
碧人は靴箱の前まで来ると、やっと手を離して振り返った。
「凛、ああいう時はもっときっぱり断らないと嫌でも押し切られるぞ」
「う…分かってるけど。なんで碧人がちょっと怒ってるんだよ」
碧人はムッとした顔で右肩にかけていたスポーツバッグを床に置くと、俺の手からジュースをひょいと抜き取り全部飲み干した。
「ちょ、碧人!?俺まだそれ半分も飲んでないのに!!」
抗議していると、碧人はバッグからバスケットボールを取り出した。
「じゃあジュース一本賭けて、勝負しない?」
「え…」
「勝敗はスリーの決定率。凛が勝ったら新しいの買って返す」
ファスナーを閉じながら見上げてくる目がにっと笑う。
ボールを渡された俺は戸惑った。
いつもなら断るところだが、汗ばむ手で持ったボールの感触と匂いが懐かしすぎて胸に熱が過ぎった。
「言ったな?」
「言った」
「よし」
そうと決まれば動きは早い。
俺たちは靴を履き替えると、グラウンドの端っこに忘れられたように立つバスケットゴールに向かった。
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