利き耳

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 その奇妙な勧誘を受けたのは、僕が最寄りのハローワークで職業訓練講座のチラシを眺めているときだった。  この日も僕は就職相談に訪れたものの、自分の希望する勤務条件に合う案件を見つけられずにいた。  窓口の職員は僕の履歴書を見ながらいろいろな就職口を紹介してくれたが、どれも僕の期待するような職場とは思えなかったのだ。  履歴書の職歴は半年前の日付を最後に打ち止められ、その下には空白がぽっかり空いているばかりだ。  それは、僕が無為に過ごしてきた休み期間を、あたかもあげつらうかのようだった。  前職を辞した半年前は、すぐ次が決まるだろうと高を(くく)っていた。今までせかせか働いてきた分、しばらくは“人生の夏休み”を堪能しようと思った。  せっかく失業給付金が出るのだし、申し訳程度にハローワークに就職活動の進捗報告を提出し、のんびりと学生時代以来の休みを楽しんでやろうじゃないか。  そんなふうに悠長に構えてきて気付けば、失業保険も次回で終了という段まで来ている。  これからどうしよう。幸い、家に待たせている家族がいるわけではなく、たちまち生活に困る状況でもない。  だけど、心身ともに健康なのにただ休んでいるだけというのはなんとも居心地が悪い。  だれに見張られているわけでもないし、自分の気の持ちようなのだろうが、今日こそはなにかを見つけて帰らなければならない。  冷房の風が涼しい案内所から外を眺めると、炎天下の熱気に満ちた空気が、もわっとしたムラとなって僕の目に映った。  室内の冷気を逃がさないよう、ハローワークの出入り口は緩衝部を挟んだ二重扉になっている。  この、中でもない外でもない境の空間でいったん滞留(たいりゅう)した冷気は、中に戻れるものと、外へ追い出されるものとに二分されるのだ。今の僕にはそう思えてならなかった。  緩衝部に出て一度休んだばっかりに、もう戻れなくなってしまった風が、否応なく追いやられる過酷な屋外。  そちら側に、僕はこれから出て行こうとしている。
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