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しかし男の立場なんかより気になったのは、もちろん、その誘い文句の内容そのものだった。
「ききみみ?」
「そう、利き耳。これから仕事を見つけて新しい人生が始まるのでしょう。身につけておいて損はないですよ」
白目と黒目の境がわからなくなるぐらいに目を細めて、男は自信たっぷりに言う。
「聞き耳って、ほかの人の話をこっそり盗み聞きするってことでしょう? そんなことを堂々と習うなんて、いい大人なのに品がないんじゃないですか」
僕が率直な感想を述べると、男は大袈裟に顔の前で両掌を振った。
「違います。聞き耳じゃないですよ。<利き耳>です」
僕に今一歩にじり寄った男は、僕の目線の先の宙に、指先で<利>という漢字を書いて見せた。
ますます訝しがる僕に向かって、男は語り続ける。
「と言っても、聞き耳と無関係ではないですね。ほら、利き酒とか利き茶ってわかります?」
「利き酒って……ちょっと飲んだり匂いを嗅いだりするだけで、どんな銘柄の酒かを当ててみせるあれ? テレビとかでよく名人が出てる……」
「そうですそうです。いわば五感を研ぎ澄まして、対象物の本質に迫るわけです。
私がお奨めする利き耳とはつまり、『聞き耳を立てているのはどんな耳なのか』を当てる能力のことをいうのです。
だから正確には、<利き聞き耳>ということになりますね」
「ききききみみ?」
「ですがそれでは言いづらいので便宜上、省略して利き耳と呼んでいます。
平たく言えば、自分に関心を持っている相手の本心を逆探知する技ですね」
どうもわかるようでわからない話だ。胡散臭さは消えなかったが、僕は男についていくことにした。
人の心に翻弄されっぱなしの自分を変えたかったから、そしてなにより最初に聞いた『仕事を見つけて新しい人生が始まる』というフレーズに心惹かれたからだった。
今の僕に必要なのは技術的なスキルよりも、新しい扉を開く鍵のようなものだという予感があった。
後になって考えれば、そんな僕の関心さえも、男は<利き耳>であらかじめ察知していたのかもしれない。
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