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男に連れて行かれるがままに電車を乗り継いでいく。
道中、男はなにも話そうとしなかったので、何とはなしに周りを見渡してみる。
お昼に近い時間だが、スーツ姿のサラリーマンがぽつぽつ乗り込んでいる。
ひるがえって僕の方はといえば、ハローワークからそのまま来たもんだから冴えない普段着のままだ。
せめてワイシャツの一枚にでも着替えてくればよかった。
自分も少し前まであちら側だったのに、ずいぶん縁遠くなってしまった気がして胸が痛む。
長らく自宅で休んでいるばかりだった僕にとっては、世間が変わらず動いていることを否応なく実感させる電車は、焦燥感をいっそう駆り立てる場所だった。
男の自宅兼オフィスだという一軒家に辿り着いた。
応接間のそこそこ新しい事務机に座らされ、簡単な契約書を交わすと、さっそく訓練が始まった。
「まずは使う耳を決めましょうか」
「耳を使うのは、聞き耳立てている相手の方でしょう? それを当てるのに僕の方も耳を使うんですか?」
「もちろんです。目には目を、耳には耳を、ですよ。
なにせ逆探知ですからね」
それを言うなら「歯には歯を」だし、そもそも微妙に意味がちがう気がするのだが。そんな僕の内心などお構いなしに男は話を続ける。
「私たちは外界の情報を得る大半を視覚に頼っています。
すなわち耳というのは普段はほとんど、おやすみ状態。
使っているようで使えていないんですよね。少しの訓練で目利きになれますよ」
そんな説明を滔々としてのけた男は、最後に決め台詞のように
「まぁ目利きと言っても『耳』ですけどね」と笑った。
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