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「利き手や利き足があるように、器用に使うことのできる利き耳というのもあるんですよ。
生まれつきというよりは、これまでの人生で習慣的に多く使ってきた側の耳が該当する場合が多いんですが」
聞き耳を察知する<利き耳>をするため、器用な方の利き耳を使う……。
いよいよ混乱を極めてきた僕は深く考えるのをやめ、
「じゃあ僕の場合は、電話するときスマホに当てる左耳ですかね」とだけ答えた。
「左ですね。よいでしょう」
先が思いやられたが、予想に反してそこから肝心の利き耳を習得するまでは早かった。
どんな訓練内容だったかは他言しないという誓約書にサインしてしまったので、ここで詳しく話すことはできないのだが、男の用意した利き耳育成プログラムとやらは優秀だった。
狐につままれたような気分のまま、当日中に全行程が終了した。
「利き耳を覚えたのはいいけど、問題は仕事をどうやって見つけるかだなぁ」
思いのほかあっさり終わったことに肩透かしを食い、帰り支度をしながらぼんやりつぶやいた僕に、男はくっくっくと特徴的な笑い声を上げた。
「おやおや、あなたはまだ、ご自分が身につけたものの価値にお気付きでないようですね。直にわかりますよ。
受講料は契約時にお話しした通り、就職先の決定によってこの一連のお休みが終わり、仕事が軌道に乗ってからで結構ですので」
男が最後に言ったことの意味は、次の日に訪れた合同転職説明会の会場で早々に判明した。
各企業のブースがひしめく会場に足を踏み入れた僕の左耳に、音とも空気とも言いがたい、波のような振動が伝わってきたのだ。
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