最期に彼は

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「お手洗いに行こうと下に降りたら侑哉が居て、もう寝なさいって言ったらもう少しだけ勉強してからって。それが最期の言葉になって……」  やつれた母親の言葉は途切れ途切れで、そこからしばらくの間、嗚咽だけが響いていた。  私はその間、ぼんやりと昔のことを思い出していた。  侑哉に出会ったのは去年の春だ。新しい1年間に少し不安を覚えながら、初めて教室に入った瞬間、ばちっと目があった。  どこにでも居る普通の高校生。だけど、彼の瞳だけは、子供のような輝きを放っていた。  その時はすぐにそらしてしまったけれど、それから授業の間でも、気づくと彼を目で追っていた。  こんなことは自分らしくないと、意識的に彼を自分の中から排除しようと考えていた矢先、同じ委員会になってしまった。  そうして接する機会が増えるにつれて、どんどん彼に惹かれていったのだ。  だめだと抑制しようとすればするほど、どうしても想いが溢れてしまう。そうしてついにそのことを、彼に悟られてしまった。 「下の名前で呼んでもいい?」  そう言われて私は、断ることができなかった。  気づけば通夜は終わっていて、周りの人がまばらに散っていた。葬儀は家族だけで執り行われるので、彼を見られるのは今日で最後だった。  まあどうであったとしても私は、それに参列することはできないが。  彼と交際していたことは、周りの誰も知らなかった。  侑哉は花に囲まれて眠っていた。両目とも、硬く閉じられている。もう2度と、あの眼差しを向けてはくれないのだと、その時になってようやく悟った。  ふと顔を上げると、祭壇の前で泣きじゃくっている女子生徒がいた。確か、隣のクラスの子で、侑哉と同じ部活に所属していたはずだ。  彼女は友達に抱き抱えられるようにして、今にも倒れそうだと言わんばかりに泣き叫んでいた。    私は下唇をぐっと噛んだ。泣きたいのはこっちの方だ。  でも私は、涙を流すわけにはいかない。  ここに長くとどまっているわけにもいかない。  最後に彼を一目見て、後ろから来たクラスメイトにその場所を譲った。  まだ明かりの灯っている式場を後にする。  もう振り返ることはしたくなかった。 「田澤先生!」  背後から呼び止められたが、聞こえないふりをした。この瞳に溜まっているものを、誰にも見られるわけにはいかない。  車に乗り込むと、一心不乱にアクセルを踏んだ。そう時間はかからずに、自分の家に到着する。  喪服のままでベッドに倒れ込んで、携帯を取り出した。 葬儀に参列できなくとも、大っぴらに泣けなくとも、私には私だけの特別があった。  おやすみ。  横に並んだ文字を指でなぞる。  彼の本当の最期の言葉は、私だけのものだ。
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