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ひとり寝のできない大人たち
パカ、と目を開けると真っ白な天井が目に入る。
紫苑は緩慢な瞬きを繰り返し、鈍く霞がかった頭で薄い記憶を辿った。
すっかり固まった体を油の足りない機械のようにギチギチと動かし、何とか起き上がる。
そこは天井よりも白い清潔感のあるベッドの上だった。
瞬きを繰り返し周囲を見回す。
ベッドの周りは薄桃色のカーテンで囲われ、左側に窓があり、午後の柔らかな日差しが差し込んでいた。
ベッドサイドには淡い木目の床頭台と小さなクローゼットが置かれ、点滴のぶら下がったスタンドまで置いてある。
点滴はポタポタと一定間隔で雫を落とし、長い管を通って紫苑の左腕へ繋がれていた。
スン、と一つ乾いた鼻を鳴らす。
微かに漂う薬品の匂いに、紫苑は「びょー、いん」と掠れた声で呟いた。
それから、脳裏に浮かんだのは最早作業も出来ないような混沌としたデスクで、紫苑はのろのろとベッド脇に垂れ下がっているナースコールを押す。
ノイズ混じりの応答は「朝日さん?」と怪訝なもので、紫苑は痰の絡んだ喉で「はい」と頷く。
ナースステーションのざわめきが微かに聞こえ、応答した看護師は「直ぐに向かいます!」と叫ぶようにしてブツリと通信を切った。
看護師は本当に直ぐにやって来て、遅れて白衣の裾を翻した医者がやって来る。
ツキツキと痛むこめかみを指の腹で揉み込む紫苑に、看護師が「丸一日眠っていたんですよ」と言い、医者が細々とした説明を重ねた。
過度の睡眠不足と栄養失調により職場で倒れた紫苑は病院に運び込まれ、看護師の言う通り丸一日眠っていたらしい。
繋がれた点滴は足りない栄養素を補うためのものだと説明を受け、紫苑は緩やかに頷いて自分の左腕をチロリと見る。
右手で左腕を撫でると、思い出したように「仕事は」と口を開く。
「仕事には、いつ戻れますか」
紫苑の問い掛けに、医者は眉根を寄せて首を振った。
正式な退院日も教えずにとにかく安静にするようにと言い含められ、紫苑は不服そうにカサついた頬を爪で引っ掻く。
デスクの上に塔のように積み上げられた書類や資料を思い出しては、早く仕事に戻らなくてはと気が急いてしまう。
医者はそんな紫苑の心情を知ってか知らずか、淡々と入院の手続きについて説明する。
諸々の書類に署名が必要なのだろう、紫苑は仕事用の鞄があればそこにボールペンも印鑑も保険証も揃っていると告げた。
しかし医者はハテと不思議そうに首を捻り、手続きは全て終えていると言う。
今度は紫苑が首を傾げる番だった。
目覚めたばかりの自分が手続きをしているはずもなく、ならば両親かと思い立つが、両親共に地方に居を構え、そう滅多やたらに出てくることはない。
大体ここ一年、実家には顔を出しておらず、紫苑自身どこか気まずさを感じていた。
首を傾げて瞬きを繰り返す紫苑に、看護師はまるで微笑ましいものでも見るかのように笑い「素敵な旦那さんですね」と言う。
「……旦那さん?」
紫苑は眠たげな目を見開く。
「はい。お手続きは旦那さんがして下さいましたし、お荷物も揃えて持って来て下さいましたよ。お荷物はそちらに」
看護師がベッド脇の小さなクローゼットの足元を指し示す。
そこには確かに黒いボストンバッグが置かれていた。
使わなくなって久しいそれは、中身の詰まり具合で丸々としたシルエットになっている。
「他に入り用の物があれば連絡して欲しいとのことですので、体調が良くなってから確認してみて下さいね」
人の良い微笑みを浮かべる看護師の顔を、紫苑はまじまじと観察するように見つめた。
看護師は「旦那さん、心配してらっしゃったんですよ」と続ける。
紫苑は緩く握った右手で数回自分の額を叩くと「あの」と点滴に繋がれた左手を上げた。
医者と看護師の顔を交互に見比べる。
「私の旦那って、黒髪でツーブロック頭の」
「え。はい」
「つり目がちの一重の」
「えぇ、はい」
困惑した様子の看護師に、紫苑は額に爪を立てた。
カリ、と額を掻く。
「朝日さん?」
顔を伏せて考え込む紫苑に、医者も看護師も揃って顔を覗き込んでくる。
ハッと見開かれた目は瞬きと共に一瞬で和らぎ、紫苑は伸びっぱなしの前髪を指先で払った。
開けた視界で眉尻を下げて笑う。
「……いえ。お互い仕事ばかりだったので、てっきり愛想も尽かされているかと思って。すみません」
今度は看護師が目を見開く番だった。
背中を丸め身を乗り出し「旦那さん!本当に心配してらっしゃったんですよ!」と繰り返す。
それに対して紫苑が小さく歯を見せれば、医者がゴホンと一つ咳払いをし、よくよく休むようにと言い含めて病室を出て行った。
***
入院病棟の消灯時間を過ぎても眠気のやってこない紫苑は、置きっぱなしになっていたボストンバッグをオーバーテーブルの上へ置いた。
チャックを開けて中身を覗き込めば、一番上には新品未開封のルームシューズが詰め込まれている。
最近の病院ではつっかけのようなサンダルは好まれないらしい。
紫苑は封を切ってベッド脇へルームシューズを放る。
目が覚めて数回トイレへ向かったが、その際に履いていたのは仕事用の黒いパンプスだった。
次からはルームシューズを使おう、紫苑は空いた袋にパンプスを詰め込む。
その後もパツパツに膨らんだボストンバッグの中身を確認すれば、値札が付いたままの下着や幅広のケースに入った箸とスプーン、更には簡易お風呂セットが入っているにも関わらず、介護用品でもある水の要らないシャンプーなどが出てくる。
よくもまあ、こんなに詰め込んだものだと感心してしまうほどだ。
同時に、こうまでしていれば確かに献身的な旦那に見えるな、と納得してしまう。
「まぁ、結婚なんてしてないんだけど」
ボストンバッグの中から個売りのローションティッシュを引っ張り出した紫苑が独り言つ。
事実、ほっそりとした左手の薬指は開放的だった。
ならば、眠りこけている紫苑をよいことに旦那を名乗った男は何者なのかと問われれば、恋人だと答えるが。
二、三年も会っていない相手であるが。
自然消滅していないのかも疑問ではあるが。
紫苑はその辺りを悩むことはなかった。
正確には、悩まないように仕事に没頭していたのだが。
大学時代からゆるりと始まった同棲生活は、社会人になっても変わらず続いていたはずだった。
何かきっかけがあったのか、異変はなかったのか、当時の紫苑が知恵熱を出すほどに考えた恋人の失踪理由は未だに分からない。
本当に突然だった。
突然、あの男は紫苑の前から姿を消したのだ。
そりゃあ紫苑も最初は覚えるのある場所を探し歩いた。
共通の知り合いに片っ端から連絡を取った。
男の両親は既に亡くなっており親族の当てはなかった。
警察にも相談へ行ったが何故か突っぱねられて帰る羽目になり、紫苑が恋人を辿る術はなくなったのだ。
その頃には恋人がいなくなって一年が経っていた。
二年目にアッと思い立った紫苑が探偵を雇おうとするも、一人目はしばらく経ってから辞退を申し出、二人目は名前と写真を見せた依頼内容の時点で断られた。
誰にも頼れない苦い記憶を思い出す紫苑は、ギリ、と音を立てて奥歯を噛み締める。
それからだった。
紫苑が仕事に没頭するようになったのは。
青白い不健康な光を発するパソコンに対し、前のめりになって齧り付くように仕事をしていた。
ガタガタとキーボードを叩く紫苑に鬼気迫るものを感じたのだろう、同期の数人が心配してよく声を掛けてくれたものだ。
しかし紫苑はその心配を受け流しては、あちらこちらから仕事を引き受けては早朝出勤と終電すらない深夜退勤、更には休日出勤を繰り返した。
誰一人、紫苑を止めることは出来なかった。
その結果が過度の睡眠不足と栄養失調による卒倒だ。
紫苑は苛立ちを抑えるように首に爪を立てた。
ガリガリ、薄い皮膚を掻き毟る。
「……あぁ。うん。眠くないな」
細い声は点滴の落ちる音に簡単に掻き消された。
***
入院して、目が覚めてから三日が経っていた。
昼食を途中で食べ終えた紫苑は用意されていた胃薬を飲む。
食器を下げに来た神経質そうな看護師が食欲がないのかと問うので、味がしないと答えれば、亜鉛不足だと言われた。
追加で亜鉛のサプリメントが増やされ、相変わらず退院日も決まらず、点滴すら取れない。
日がな一日することのない紫苑の元に同僚が訪ねて来たのは夕方の定時過ぎだ。
しっかり自分の仕事を終わらせてきたらしい同僚は手土産にフルーツバスケットと小さな花束を寄越し、案内して来た看護師が生けてくた。
「大丈夫?」
同僚の控えめな問い掛けに紫苑は「うん」と軽く頷き「すぐにでも仕事に戻れるくらい」と続けた。
軽口に安心したのか同僚はアハと笑い声を上げる。
「でも残念。溜まってた仕事は片付けちゃった」
「ごめんね。山ほどあったでしょう」
「うん。それは本当に。……よくやってたよ」
「仕事が好きなの」
ニコリと微笑む紫苑が「持って来ても良いよ」と言えば、同僚は困ったように眉を下げて首を竦める。
「でも、そんなこと言ってるなら、やっぱり噂は噂かな」
「噂?」
同僚はフルーツバスケットの中から林檎を取り出して頷く。
自前らしい果物ナイフで林檎を切り分けてくれる。
「辞表を出したって」
手元を見つめる同僚は、カチリと動きを止めた紫苑に気付かない。
細い指先が白いシーツを握り真っ白になっている。
同僚が顔を上げる頃には取り繕った表情で「まさか」と笑うことが出来た。
一通り仕事場の状況と紫苑の状態を話し、同僚は帰って行った。
見送った紫苑は、同僚の乗ったエレベーターの扉が閉まると身を翻し、点滴スタンドをガタガタと鳴らし備え付けの公衆電話へと駆け寄る。
入院着のポケットには数枚の硬貨が入っており、素早く投入し、記憶の中の上司の電話番号を強くプッシュした。
耳元に当てた受話器から聞こえるコール音が焦れったく、コツコツと公衆電話の側面を叩く。
コール音が途切れると「お疲れ様です。朝日です」と名乗る。
上司は驚いた様子で応対した。
まず最初に調子を問われ、やはり同僚相手と同じく自分は問題ないと主張する。
それに暫し沈黙し相槌を打つ上司はきっと納得出来ていないことだろう。
眉根を寄せる紫苑はそれを察しながらも、それよりも大事なことがあると口を開く。
「私が辞表を出したという噂を聞きました」
硬い声音に上司は電話口で息を飲んだ。
紫苑は、あぁ、と思う。
公衆電話の側面を叩いていた指はいつの間にか動きを止めていた。
「代理人から君の辞表を受け取っている」
お前ふざけるなよ、紫苑は脳裏に浮かんだ男へ怒鳴りつけたい気分だった。
***
「夜、寝る前に飲んで下さい。仮眠には使用しないように。それから、お酒と一緒には飲まないで下さい」
いいですね、分かりましたね、まるで聞き分けのない子供に言い含めるように重ねる医者に、紫苑は神妙な顔を作って頷いた。
入院後、睡眠不足と栄養失調以外にも、不眠症になっていることが判明した紫苑は、退院が決まっても通院することが決められた。
不眠症に関しては倒れる前から自覚があったものの、仕事中毒に陥っていた紫苑は睡眠時間が仕事に当てられると考え、それが病気であるという認識が出来ていなかった。
深夜になっても瞼が落ちず、チラチラと光る窓の外を眺めていると、点滴の様子を見に来た看護師が眠れないのかと聞いてきたのだ。
眠れない、ではなく、眠くない、と答える紫苑に、翌日現れた医者は不眠症と診断を下した。
眠くない割に目の下には隈を作った紫苑は、ははぁ、と感心半分に頷いたものだ。
ちなみに残り半分は無関心であった。
ただ、目が覚めた当初に旦那云々の話をした看護師が様子を見に来た際に、思い出したように言った言葉はよく覚えている。
「旦那さんもお仕事忙しそうでしたもんね」と。
紫苑と同じように目の下に隈を作っていたらしい。
神妙な顔を保ったまま、袋に入った睡眠導入剤を受け取る紫苑は、早く帰ろうと細い息を吐く。
倒れたことや入院生活よりも、数年姿を見せなかった恋人が影を覗かせていることに心労を覚えている。
紫苑の意識がない間に旦那を名乗り、心配していると嘯き、職場に辞表を出したくせに、見舞いには一度も来なかった。
心労と共に腸が煮えくり返るような怒りも覚えている。
だが、そんなことは世話を掛けた医者にも看護師にも関係ない。
心労も怒りも表に出さない紫苑は、深々と頭を下げて「お世話になりました」と挨拶をする。
「お大事に」医者も看護師も声を揃えて言った。
顔を上げた紫苑は笑みを見せると、パンパンに膨らんだボストンバッグと薬の入った袋を持って入院病棟を出る。
病院の前にはタクシーが数台止まっており、帰宅は簡単だった。
自宅の住所を運転手に告げた紫苑は、じっと流れていく外の様子を眺め、自宅の惨状を思う。
長い点滴生活で左腕には青アザが残り、少し腕を曲げるだけで痛み、右手で撫でながら振り込まれているであろう退職金で家事代行でも頼もうかと考えた。
入院費用は既に支払われた後で、金銭面に不安はない。
支払いはどうせあの男だろうと見当を付けてある。
怒りに任せてそのお金は返さないぞ、と決めた紫苑は存外静かに止まったタクシーに代金を支払い、久方振りの我が家へと足を踏み入れた。
「あぁ、嫌だなぁ」
ボストンバッグを玄関へ放り投げた紫苑は、バタバタと室内を歩き回って呟いた。
予想外に部屋は全て綺麗だ。
ホコリ一つない様子に、男が入院の荷物をまとめる以外でこの部屋に戻ったことが分かる。
キッチンや脱衣所に溜まっていた洗い物がなくなり、リビングに転がっていたエナジードリンクや栄養ドリンクの空き缶、空き瓶は姿を消していた。
冷蔵庫の中身も萎びた野菜や賞味期限切れの牛乳が消え、代わりに日持ちしそうなおかずがタッパーに詰められ、冷凍庫にも冷凍食品が詰め込めれている。
空になった米びつにも米があり、生活雑貨の諸々も買い置きがされていた。
「至れり尽くせりだもん」
コン、と額を叩いた紫苑は溜息と一緒に爪を立てる。
痒くもない額を掻いて思考を放棄した。
最後に寝室を覗けばシーツの変えられたベッドがある。
ホテルのようにシワのないシーツへ身を放り、紫苑は四肢を伸ばしてシワを刻んでやった。
ざまあみろ、心中で舌を出す。
見慣れた天井に安堵を覚えつつ寝返りを打てば、同棲を始めた頃に買って貰ったサイドランプが目に入る。
サイドテーブルの上にはランプしか置かれていないはずだった。
何故かガラスの小皿が置かれており、紫苑は上半身を起こす。
小皿の上には煙草火消しのような丸いものが置いてあり、それもガラス製だった。
丸いものを手に取り眺めていると、小皿の奥にも何か置かれていることに気付く。
何だ、と手を伸ばせば達筆で『香』と書かれたシンプルな小箱だ。
中のオイルが半分になったライターも置いてある。
お香だった。
煙草火消しのような丸いものは香立、ガラスの小皿は香炉だ。
正体が分かると紫苑は眉間に皺を寄せ、持っていた香立もお香の入った小箱もライターも放り投げた。
高い音を立ててフローリングの上を滑るそれらに背を向け、紫苑は強く目を閉じる。
睡眠導入剤は飲まなかった。
まだ夜の眠る時間ではなかったからだ。
***
不貞寝は結局二時間にもならなかった。
のそのそと起き上がって適当にお風呂に入って夕食を食べて、何をしてもしなくても時間は進む。
夜になって紫苑は十錠ワンシートの睡眠導入剤を飲んだ。
一回一錠、容量用法は守る。
すっかり皺になったシーツの上で紫苑は体を丸めた。
医者からも看護師からもお風呂は湯船に浸かって体を温める、寝る前の食事は控える、お酒も控える、などなど教わっており、覚えている限りを実行した。
それでも十分、二十分、眠気のないままに時間が過ぎる。
常夜灯すら消した寝室に一人、紫苑はきゅっと目を閉じた。
時計はヘッドボードの上にデジタルなものが置かれ、秒針の音もなく静かだ。
時折、紫苑の身じろぐ衣擦れの音だけが聞こえる。
布団に潜り込んで一時間が経った頃、紫苑はむくりと起き上がった。
「眠くない」深夜に看護師に告げたように、眠れないのではなく眠くない、そう呟いて首を掻く。
どうしたものかとベッドの上で体育座りをした紫苑は、ヘッドボードの上でチラチラと光る自分のスマホを見た。
着信のあったランプの色に、ハテ、首を傾げる。
こんな時間に一体なんだろうか。
画面の明かりはパッと紫苑の顔を照らし、いくつかの着信履歴を見せた。
電話が数件、切れてはかかってくるの繰り返しだ。
しかも未登録で非通知。
緩慢な瞬きと共に画面を見下ろしていると、画面が自動的に切り替わり更なる着信を告げた。
サイレントモードのスマホは静かだ。
ぽん、紫苑の人差し指が『応答』の文字をタップした。
画面がまた切り替わり通話中に変わる。
スマホに変えてから耳に当てて電話をするのが奇妙に感じるようになった紫苑は、スピーカーに変えて応対した。
「もしもし」返ってくる言葉はない。
雨のようなノイズ音が聞こえてくるばかりだ。
「もしもし。どちら様ですか?」
返答はない。
切れる様子もない。
紫苑は試しに通話終了の文字を指の腹で触れる。
ホーム画面に戻り通話は終わった。
しかし、紫苑はその画面を見つめ、また、切り替わるのを見る。
絶えず電話は掛かってきた。
一定時間出なければ切れ、再度掛ってくるらしい。
数回画面が切り替わるのを眺め、また電話に出る。
電話が掛ってくるということは電話口の向こう側に人がいるということだが、サーと響くのはノイズ音で人の声が聞こえない。
怯える気配のない紫苑はそのまま通話状態のスマホをヘッドボードへ置いた。
充電が切れないように繋いでおく。
溜息を吐いてベッドから下りる紫苑は、フローリングの床に転がったままの香立、小箱、ライターを拾い集める。
香立は香炉に置き、小箱を開けて細長い棒香を取り出す。
鼻を寄せてスンと嗅げばどこかで嗅いだことのある花の香りがする。
棒香を香立に立ててライターで火を付ければ、小さな赤い光を発してチリチリと燃え始めた。
か細い煙が揺れる。
雨音のようなノイズとか細い煙に混ざった花の香りが、不思議と現実から隔離するような曖昧さで紫苑を眠りへと誘う。
「眠くないの」サイドテーブルでゆらゆらと燃える棒香を眺めながら、紫苑は煙のように不確かな声で呟いた。
スマホのマイクからはノイズ音しか聞こえてこない。
それでも、紫苑はベッドの上に体を横たえて続けた。
「眠くないから、眠れないの。働いていたら、そんなこと気にならなかったのに」
柔い枕は紫苑の好みではなかった。
もっとしっかり頭を支えて欲しく、何度も頭の位置を調整して細い息を吐く。
「ダブルベッドって一人だと広すぎるし。冬とか、寒かった気がする。覚えてないけど」
両足を器用に使って、もそもそと掛け布団を蹴り上げるように体へ掛ける。
手で引き寄せて肩までしっかり布団を被った。
紫苑の手入れした覚えのない、陽だまりに似た温い匂いが残っている。
「眠れてないんだってね」
紫苑は静かに瞬きを繰り返した。
長い睫毛が小さく震える。
「一人だと、上手に眠れないのかな」
棒香がじわじわと短くなっていく。
薄い肩を大きく上下させた紫苑は深く息を吸った。
寝室に広がる花の香りで肺を満たすように。
目を閉じる。
暗闇の中に真っ白な瞼が浮かび上がった。
「おやすみ」
紫苑が言う。
掛け布団が緩やかに上下した。
電話口の、まるで雨のようなノイズ音が消える。
「おやすみ」
隣にあるはずの温もりを補うには簡素な挨拶だった。
それでも離れた夜に必要な挨拶だった。
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