《132》

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 あの時の直政は悲しくなるほど無力だった。山県昌景にもののふとしての魂を注入されて、いくらかましなものになれたと思っている。師父様、あの時虎松だった俺は、井伊直政になりました。内心で昌景への報告を済ませ、直政は馬脚を上げた。忠勝と康政よりも前に出る。呼吸二つする間に、忠勝、康政に抜かされた。黒と白があっという間に小さくなる。直政は手綱を操り、必死に馬を駆らせた。  2町(約220メートル)ほど先で忠勝と康政が馬を停めていた。馬上の二人は正面、緑の丘を見上げている。直政も丘を見た。丘の頂が燃えていた。真っ赤なのだ。直政は忠勝と康政の間に馬を入れて停まった。丘の上、2、3百騎の騎馬隊が整列していた。皆、赤い甲冑姿である。赤備えだ。 「ここで、私と忠勝は帰る」 康政が言った。 「お前を待っていたのだろう」 忠勝が言って馬首を回し、直政の肩に触れてきた。 「お前はもう、井伊直政なのだ。しっかりやってこい」  直政だけを残して忠勝と康政は駆け去った。 どこからか、風に運ばれてきた砂ぼこりが直政の前を通り過ぎていった。丘の上下、赤備えと対峙する。俺の部隊だ。強く、鮮明に、そう思うことができた。直政は馬腹を蹴った。丘を駆け登る。丘の頂に来た。赤備えの先頭、相木市兵衛の姿があった。 「設楽ヶ原の戦いから7年、様々な試練や悲しみを乗り越えてこられたのだろうな。良い顔になられた」 市兵衛が通りの良い声で言った。 「我が眼前に居るのは、虎松殿でも万千代殿でもない。まごう事なく、井伊直政殿だ」 「俺を赤備えの大将として認めてくれるか、市兵衛」 「最後の試練を突破して頂けたら、赤備え一同、直政殿を大将として担ごう」 「最後の試練?」 直政は市兵衛の言葉を反芻した。市兵衛が頷く。 「直政殿、おぬしの手で、この私を、相木市兵衛を殺すがよい。それができれば、赤備えは今日より井伊の赤備えとなる」
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