《132》

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 8月だが、そんなに暑さは感じなかった。すべての障子戸は開け放たれていて、万千代の背後、入ってきた板戸も開いたままだ。板戸の向こうは庭になっていて風がよく通る。それに、この屋敷は庭木の影に包まれているから暑くないのだ。ただ、蝉の声はかまびすしい。否応なしに真夏を感じる。酒井忠次、大久保忠世を中心とした徳川の重臣が居並び、座している。その向こう、一番上座に家康の姿があった。間には厳かな空気が流れている。浜松城城区内にある、普段は評定などを行う時に遣う屋敷だ。皆、礼服姿である。万千代は緊張しながら、重臣が居並ぶ道を進んだ。畳のひんやりとした感触が足裏に伝わってくる。座の真ん中辺りに本多忠勝がいた。忠勝の礼服、前を留める紋の結び目がでたらめで、前襟が少しはだけている。甲冑を着けている時の本多忠勝はいつも隙がなく堂々としているのに、今日は落ち着きがなく、服ばかりを触り、体が縮んだように見える。忠勝の右隣に座る榊原康政が何事かを耳許で囁く。忠勝は曇った表情で康政に何か言い返している。榊原康政の方は礼服の着こなしに隙が無く洗練されたものが醸し出されていた。どちらも手本だ、と万千代は思った。  酒井忠次と大久保忠世に挟まれたところまで進んで万千代は畳に膝を着いた。正面には家康が座している。家康の背後の壁に、『井伊直政』と大書された掛け軸が吊るされている。元服の式典である。万千代の名は今日から井伊直政になるのだ。  家康が烏帽子を両手で掲げ持ち、万千代の傍に来た。 「これから、ますます励め」 言って、家康が万千代の頭に烏帽子を着けた。 「頼むぞ、井伊直政」  全身が引き締まる想いが湧いた。  
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